ところが、こゝに一つの捫着《もんちゃく》が起った。と云うのは、なんでも或日のこと、その梅の井の門口で酔っ払いが二三人で喧嘩を始めたところへ、丁度に彼の清吉が通りあわせて、見てもいられないから留男に這入ると、相手は酔っているので何かぐず/\云ったので、清吉も癪に障って肌をぬいだ。すると、相手はせゝら笑って、「へん、刺青もねえ癖に、乙う大哥《あにい》ぶって肌をぬぐな。」とか、なんとか云ったそうです。
それを聞くと清吉は赫《かっ》となって、まるで気ちがいのようになって、穿いている下駄を把って相手を滅茶々々になぐり付けたので、相手も少し気を呑まれたのでしょう、おまけに酔っているから迚もかなわない。這々の体で起きつ転びつ逃げてしまったので、まあその場は納まりました。梅の井の家内の者も門に出て、初めからそれを見ていたのですが、その時に家の女房、即ちお金のおふくろがなんの気なしに、「あゝ、清さんも好い若い者だが、ほんとうに刺青のないのが瑕《きず》だねえ。」と、こう云った。それがお金の耳にちらり[#「ちらり」に傍点]と這入ると、これもなんだか赫として、自分の可愛い男に刺青のないと云うことが、恥かしいような、口惜いような、云うに云われない辛さを感じたのです。
二
勿論、清吉が堅気の人でしたら、刺青のないと云うことも別に問題にもならず、お金もなんとも思わなかったのでしょうが、相手が駕籠屋の息子だけにどうも困りました。お金のおふくろも固《もと》より悪気で云ったわけではない、ゆく/\は自分の娘の婿になろうという人を嘲弄するような料簡で云ったのではない、なんの気も無しに口が滑っただけのことで、それはお金もよく知っていたのですが、それでもなんだか口惜いような、きまりが悪いような、自分の男と自分とが同時に嘲弄されたように感じられたのです。それもおとなしい娘ならば、胸に思っただけのことで済んだのかも知れませんが、お金は頗る勝気の女で、赫となるとすぐに門口へかけ出して、幾らかおふくろに面当ての気味もあったのでしょう、「清ちゃん、なぜお前さんは刺青をしないんだねえ。」と、今や肌を入れようとする男の背中を、平手でぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]と叩いたのです。
事件は唯それだけのことで、惚れている女に背中を叩かれたと云うだけのことですが、何うもそれだけのことでは済まなくなった。前
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