習の指南をやめなければならない事になりました。市川さんは支配頭のところへ呼び出されて、お手前の手跡指南は今後見合わせるようにとの諭達を受けました。理窟を云っても仕様がないので、市川さんはその通りにしました。
 それで済んだのかと思っていると、市川さんはやがて又、小普請入りを申付けられました。これも手跡指南の問題にかゝり合があるのか無いのか判りませんが、なにしろお気の毒のことでした。いつの代にもこんなことはあるのでしょうね。
[#改段]

刺青の話

       一

 そのころの新聞に、東京の徴兵検査に出た壮丁のうちに全身に見ごとな刺青《ほりもの》をしている者があったという記事が掲げられたことがある。それが話題となって、三浦老人は語った。
「今どきの若い人にはめずらしいことですね。昔だって無暗《むやみ》に刺青をしたものではありませんが、それでも今とは違いますから、銭湯にでも行けば屹《きっ》と一人や二人は背中に墨や朱を入れたのが泳いでいたものです。中には年の行かない小僧などをつかまえて、大供が面白半分に彫るのがある。素人に彫られては堪らない。小僧はひい/\云って泣く。実に乱暴なことをしたものです。刺青をしているのは仕事師と駕籠屋、船頭、職人、遊び人ですが、職人も堅気な人間は刺青などをしません。刺青のある職人は出入りをさせないなどと云う家《うち》もありますから、好《い》い職人になろうと思うものは迂濶に刺青などは出来ないわけです。武家の仲間《ちゅうげん》などにも刺青をしているものがありました。堅気の商人《あきんど》のせがれでありながら、若いときの無分別に刺青をしてしまって、あとで悔んでいるのもある。いや、それについて可笑《おかし》いお話があります。なんでも浅草辺のことだそうですが、祭礼のときに何か一《ひと》趣向しようというので、町内の若い者たちが評議の末に、三十人ほどが背中をならべて一匹の大蛇を彫ることになったのです。三十人が鱗《うろこ》のお揃いを着ていて、それが肌ぬぎになってずらり[#「ずらり」に傍点]と背中を列べると、一匹の大蛇の刺青になるという趣向、まったく奇抜には相違ないので、祭礼の当日には見物人をあっ[#「あっ」に傍点]と云わせたのですが、さあ其後が困った。三十人が一度に列んでいれば一匹の形になるが、ひとり一人に離れてしまうと何うにもならない。それでも蛇のあた
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