まを彫った者はまあ可《い》いのですが、そのほかの者はみんな胴ばかりだから困る。背中のまん中を蛇の胴が横ぎっているだけでは絵にも形にもならない。と云って、一旦彫ってしまったものは仕方がない。図柄によって何とか彫り足して誤魔かすことも出来ますが、大蛇の胴ではどう[#「どう」に傍点]も困ると洒落れたいくらいで、これらは一生の失策でしょう。併しこんな可笑しいお話ばかりではない、刺青の為には又こんな哀れなお話もあります。わたくしは江戸時代に源七という刺青師《ほりものし》を識っていまして、それから聴いたお話ですが……。その源七というのは見あげるような大坊主で、冬になると河豚《ふぐ》をさげて歩いているという、いかにも江戸っ子らしい、面白い男でしたよ。」
 老人が源七から聴いたという哀話は大体こういう筋であった。

 あれはたしか文久……元年か二年頃のことゝおぼえています。申すまでもなく、電車も自動車もない江戸市中で、唯一の交通機関というのは例の駕籠屋で、大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋、浅草の伊勢屋と江戸勘、吉原の平松などと云うのが其中で幅を利かしたもんでした。多分その初音屋の暖簾下か出店かなんかだろうと思いますが、芝神明の近所に初島《はつしま》という駕籠屋がありました。なか/\繁昌する店で、いつも十五六人の若い者が転がっていて、親父は清蔵、むすこは清吉と云いました。清吉は今年十九で、色の白い、細面の粋《いき》な男で、こういう商売の息子にはおあつらえ向きに出来上っていたんですが、唯一つの瑕《きず》というのは身体《からだ》に刺青《ほりもの》のないことでした。なぜというのに、この男は子供のときから身体が弱くって、絶えず医者と薬の御厄介になっていたので、両親も所詮こゝの家の商売は出来まいと諦めて、子供の時から方々へ奉公に出した。が、どうも斯ういう道楽稼業の家に育ったものには、堅気の奉公は出来にくいものと見えて、どこへ行っても辛抱がつゞかず、十四五の時から家へ帰って清元のお稽古かなんかして、唯ぶら[#「ぶら」に傍点]/\遊んでいるうちに、蛙の子は蛙で、やっぱり親の商売を受け嗣ぐようになってしまった。年は若し、男は好し、稼業が稼業だから相当に金まわりは好し、先ず申分のない江戸っ子なんですが、裸稼業には無くてならぬ刺青が出来ない。刺青をすれば死ぬと、医者から固く誡められているのです。
 前にも申
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