森君の机の前に坐り直した。あたかもその時に、縁側から内をのぞいている書生の顔が障子の硝子《がらす》越しに黒く見えたので、わたしは笑いながら声をかけた。
「先生はもう行きましたか。」
「はあ。」
「僕はもう少しお邪魔をしていますよ。」
「どうぞごゆっくり。」と、書生の顔はすぐに消えてしまった。
 わたしは書生のいう通り、ゆっくりとそこに坐り込んで森君の古い日記帳と向い合った。日記の表紙には今から十二、三年前の明治××年と記《しる》されてあった。わたしは急いでその八月のぺージを繰《く》ってみた。月はじめの三日ばかりの間には別に変った記事を見つけ出されなかったが、とにかく森君は七月の末から日光の町に滞在して、ある小さい宿屋の裏二階の四畳半に泊っていたということだけは判った。その当時の森君は或る私立大学の文科の学生であったことをわたしは知っていた。わたしは日光の古い町にさまよっていた若い学生のおもかげを頭に描きながら、その日記をだんだん読みつづけてゆくと、八月四日の条に、こういう記事を発見した。

 四日、晴。午前七時起床。散歩。例に依りて挽地物屋《ひきじものや》の六兵衛老人の店先に立つ。早起
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