。」
「実はね。」と、言いかけて、森君は急に気がついたように懐中時計を出して見た。「や、こりゃいけない。もう三十分しかない。上野まで大急ぎだ。」
「いいじゃないか、ひと汽車ぐらいおくれたって……。別に急ぎの旅でもあるまい。」
 森君は焦《じ》れったそうに衝《つ》と起ちあがって、本箱のなかを引っ掻きまわしていたが、やがて一冊の古い日記を持出して、投げ出すように私のまえに置いた。
「この日記の八月のところを見てくれたまえ。そうすれば大抵わかるよ。僕は急ぐから失敬する。」
 客のわたしを置き去りにして、気の短い森君はカバンを引っ提げて、すたすたと玄関の方へ出て行ってしまった。森君は三十|幾歳《いくつ》の今年まで独身で、老婢《ばあや》ひとりと書生一人の気楽な生活である。雑誌などへ時どき寄稿するぐらいで、別に定まった職業はない。多年懇意にしている私は、今夜もただ簡単に会釈《えしゃく》しただけで彼を見送ろうともしなかった。老婢や書生が玄関でなにか言っているのをよそに聞きながら、わたしはその日記帳を手に取って、八月のところを探してみようとしたが、電燈の光線の工合が悪いので、わたしは初めて起ちあがって
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