霊のごとく、たとえん方《かた》もなく物凄し。宿に帰れば宇都宮の田島さんより郵便来たり、今夜からあしたにかけて泊りがけで遊びに来いという。すぐに支度して行く。

 田島さんというのは森君の友人で、宇都宮で新聞記者をしている人であった。森君も九日の午後の汽車で宇都宮に着いて、公園に近い田島さんの家に一泊したことは日記に詳しく書いてあるが、この物語には不必要であるからここに紹介しない。とにかく森君は翌十日も田島さんの家で暮らした。その晩帰るつもりであったところを、無理にひきとめられてもうひと晩泊った。森君が田島さん夫婦に歓待されたことは日記を見てもよく判る。こうして彼は八月十一日を宇都宮で迎えた。彼の日記のおそろしい記事はこの日から始まるのである。

     二

 十一日、陰《くもり》。ゆうべは蚊帳《かや》のなかで碁を囲んで夜ふかしをした為に、田島の奥さんに起されたのは午前十時、田島さんは予の寝ているうちに出社したという。きまりが悪いので早々に飛び起きて顔を洗い、あさ飯の御馳走になっているところへ、田島さんはあわただしく帰り来たり、これから日光へ出張しなければならない、丁度いいから一緒に行こうという。田島さんにせき立てられて、奥さんに挨拶もそこそこにして出る。停車場に駈けつけると、汽車はいま出るところなり。二人はころげるようにして漸く乗り込むと、夏の鳥打《とりうち》帽をかぶりたる三十前後の小作りの男がわれわれよりも先に乗っていて、田島さんを見て双方無言で挨拶する。やがて彼は田島さんにむかいて「あなたも御出張ですか。」といえば、田島さんはうなずいて「御同様に忙がしいことが出来ました。」という。それを口切りに、二人のあいだにはいろいろの会話が交換されたり。だんだん聞けば、予の留守のあいだに、日光の町にいたましき事件が突発して、かの磯貝満彦という青年紳士が何者にか惨殺されたるなり。
 兇行は昨夜八時頃より今暁《こんぎょう》四時頃までのあいだに仕遂げられたらしく、磯貝は銘仙《めいせん》の単衣《ひとえもの》の上に絽《ろ》の羽織をかさねて含満《がんまん》ヶ|渕《ふち》のほとりに倒れていたり。両手にて咽喉《のど》を強く絞められたらしく、ほかには何の負傷の痕もなし。また別に抵抗を試みたる形跡もなきは、その薄羽織の少しも破れざるを見ても察せられる。かれは片手にステッキを持っていたれど、それすらも振廻す暇がなかったらしいという。それは新聞社に達したる通信にて、田島さんの話なり。また、鳥打帽の男の話によれば、磯貝の紙入れはふところから掴《つか》み出して、引裂いて大地へ投げ捨ててありしが、在中の百余円はそのままなり。金時計は石に叩きつけて打毀《ぶちこわ》してあり。それらの事実から考えると、どうしても普通の物取りではなく、なにかの意趣《いしゅ》らしいという。この鳥打帽の男は宇都宮の折井という刑事巡査であることを後にて知りたり。
 午後に日光に着けば、判検事の臨検はもう済みて、磯貝の死体はその旅館に運ばれていたり。田島さんと折井君に別れて、予は自分の宿にかえる。宿でもこの噂で大騒ぎなり。こんな騒ぎのあるせいか、今日もまただんだんに暑くなる。午後二時ごろに田島さんが来て、これから折井君と一緒に現場を検分に行くが、君も行ってみないかという。一種の好奇心にそそられて、すぐに表へ出ると、折井君は先に立って行く。田島さんと予はあとについて行く。やがて下河原の橋を渡って含満ヶ渕に着く。たびたび散歩に来たところなれど、ここで昨夜おそろしい殺人の犯罪が行われたかと思うと、ふだんでも凄まじい水の音が今日はいよいよ凄まじく、踏んでいる土は震うように思わる。ここの名物の化《ばけ》地蔵が口を利いてくれたら、ゆうべの秘密もすぐに判ろうものを、石の地蔵尊は冷たく黙っておわします。予は暗い心持になって、おなじく黙って突っ立っていると、折井君は鷹のような眼をして頻りにそこらを眺めまわしている。田島さんもそれと競争するように、眼をはだけてきょろきょろしている。
 やがて田島さんはバットのあき箱を拾うと、折井君は受取って子細らしく嗅《か》いでみる。箱をあけて振ってみる。それからまた三十分ばかりもそこらをうろうろしているうちに、折井君は草のあいだから薄黒い小鳥の死骸を探し出したり。ようように巣立ちをしたばかりの雛にて、なんという鳥か判らず。田島さんは時鳥《ほととぎす》だろうという。折井君は黙って首をかしげている。ともかくもその雛鳥の死骸とバットの箱とを袂に入れて折井君はもう帰ろうと言い出したれば、二人も一緒に引っ返す。その途中、折井君は予にむかいて「あなたは先月からここに御逗留だそうですが、ここらの挽地物屋で、小鳥をたくさんに飼っている家《うち》はありませんか。」と訊く。それはお冬さんの家なり
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