森君の机の前に坐り直した。あたかもその時に、縁側から内をのぞいている書生の顔が障子の硝子《がらす》越しに黒く見えたので、わたしは笑いながら声をかけた。
「先生はもう行きましたか。」
「はあ。」
「僕はもう少しお邪魔をしていますよ。」
「どうぞごゆっくり。」と、書生の顔はすぐに消えてしまった。
わたしは書生のいう通り、ゆっくりとそこに坐り込んで森君の古い日記帳と向い合った。日記の表紙には今から十二、三年前の明治××年と記《しる》されてあった。わたしは急いでその八月のぺージを繰《く》ってみた。月はじめの三日ばかりの間には別に変った記事を見つけ出されなかったが、とにかく森君は七月の末から日光の町に滞在して、ある小さい宿屋の裏二階の四畳半に泊っていたということだけは判った。その当時の森君は或る私立大学の文科の学生であったことをわたしは知っていた。わたしは日光の古い町にさまよっていた若い学生のおもかげを頭に描きながら、その日記をだんだん読みつづけてゆくと、八月四日の条に、こういう記事を発見した。
四日、晴。午前七時起床。散歩。例に依りて挽地物屋《ひきじものや》の六兵衛老人の店先に立つ。早起きの老人はいつもながら仕事に忙がしそう也《なり》。お冬さんは店の前を掃いている。籠の小鳥が騒々《そうぞう》しいほどさえずる。お冬さんの顔色ひどく悪し、なんだか可哀そう也――。
六兵衛老人のことも、お冬という女のことも、前にはちっとも書いてないので、わたしも一時は判断に苦しんだが、その後の記事を読んでゆくうちに、お冬さんというのは老人のひとり娘で、ちょっと目をひく若い女であることが想像された。森君は毎日この店へ遊びに行って、親子と懇意になっていたらしい。
五日、晴。涼し。――お冬さんは別に身体が悪いのでもないよう也。ほかに何か苦労があるらしく思わる。予の隣りの大きい旅館に滞在せる二十六、七の青年紳士も、朝夕にたびたびここの店に立寄って、お冬さんに親しく冗談などいう。お冬さんの顔色の悪きは、あるいは彼になにかの関係があるのではないかとも疑わる。――午後六時ごろ再び散歩。六兵衛老人の店先に腰をかけていると、かの青年紳士は小せんという町の芸妓を連れて威張って通る。お冬さんの眼の色いよいよ嶮《けわ》しくなる。これにて一切の秘密判明。紳士は磯貝満彦といいて、東京の某実業家の息子なる由《よし》。――
森君がこうしてお冬という娘のことを気にかけているのを見ると、その日記にいわゆる「なんだか可哀そう」という程度を通り越しているらしい。森君もおそらく眼を嶮しくして、彼女と青年紳士との行動に注意していたのであろう。しかし六日と七日の日記の上にはお冬さんに関する記事はなんにも見えない。もっともこの二日間は毎日おそろしい雷雨がつづいたので、森君もさすがに外出しなかったのであった。
八日、晴、驟雨《しゅうう》。午前七時起床。けさはぬぐうがごとき快晴なり。食後散歩。挽地物屋の店にお冬さんの姿みえず、老人もめずらしく仕事を休みて店先にぼんやり坐っている。例のごとく挨拶したれど、老人なんの返事もせず。――午飯《ひるめし》の時に宿の女中の話によれば、お冬さんはきのうの夕方に雷雨を冒《おか》して出《い》でたるまま帰らずとのこと也。情夫《おとこ》でもあるのかと訊けば、お冬さんは町でも評判のおとなしい娘にて、浮いた噂などかつて聞いたこともないという。彼女が無断にて家出の子細は誰にもわからず。なんだか夢のようなり。――夕より俄かにくもりて、驟雨、雷鳴。お冬さんは今頃どうしているにや。夜に入って雨やみたれば、八時ごろ散歩。挽地物屋《ひきじものや》の店にはやはりお冬さんは見えず。老人が団扇《うちわ》づかいの唯さびしげなり。
九日、晴。虫が知らしたるか、けさは早く醒めると、雨戸をあけに来た女中から思いもつかない話をきく。お冬さんはゆうべの十一時過ぎに、ちらし髪の素足でどこからか帰って来たるよしにて、お山の天狗にさらわれたるならんとの噂なりとぞ。奇妙なこともあるものなり。食後すぐに行ってみると、お冬さんは真っ蒼な顔をして店に坐りいたり。声をかけても返事もせず、六兵衛老人の姿もみえず。さらに見まわせば、老人の道楽にてたくさんに飼いたるいろいろの小鳥の籠はひとつも見えず。お父《とっ》さんはどうしたと重ねて問えば、お冬さんは微かな声で、奥に寝ていますという。鳥籠はどうしたときけば、鳥はみんな放してやりましたという。なにか子細がありそうなれど、この上の詮議もならねばそのままにして別れる。晴れて今日は俄かに暑くなる。――午後再び散歩。大谷《だいや》川のほとりまで行って引っ返して来ると、お冬さんの店にはかの磯貝という紳士が腰をかけて、何か笑いながら話している。お冬さんの顔は鬼女のごとく、幽
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