。予は正直に答えると、折井君はまた思案して「そのお冬というのはどんな女です。」と重ねて訊く。予は知っているだけのことを答えたり。
 予はここで白状す。お冬さんがこの事件に関係があろうとは思われず。たとい関係があるとしても、おとなしいお冬さんが大の男を絞め殺そう筈はなし、どのみち直接にはなんの関係もないらしく思われながら、予は妙に気おくれがして、お冬さんが家出のことをこの探偵の前にさらけ出すのを躊躇したり。別に子細はなし、若いお冬さんの秘密を他に洩らすのがなんだか痛々しいような気がしたるためなり。他のことはみな正直に言いたれど、この事だけは暫く秘密を守れり。
 折井君には途中で別れ、田島さんは予の宿に来たりて新聞の原稿を書く。きょうは坐っていても汗が出る。陰りて蒸し暑く、当夏に入りて第一の暑気かも知れず。田島さんは忙がしそうに原稿を書き終りて、夕方の汽車で宇都宮へ帰る。予は停車場まで送って行く。帰りぎわに田島さんは予にささやきて「折井君はお冬という娘に眼をつけているらしい。君も注意して、なにか聞き出したことがあったら直ぐに知らしてくれたまえ。」と言う。なんだか忌な心持にもなったけれど、ともかくも承知して別れる。宿へ帰る途中で再び折井君に逢う。折井君は汗をふきながら大活動の様子なり。しかもその活動を妨げるように、日が暮れると例の雷雨。

 十二日、晴。神経が少し興奮しているせいか、けさは四時頃から眼がさめる。あさ飯の膳の出るのを待ちかねて、早々に食ってしまって散歩に出る。六兵衛老人の姿はけさも店先にあらわれず。お冬さんに訊けば、気分が悪いので奥に寝ているという。お冬さんの顔色もひどく悪し。予は思い切って「警察の人が何か調べに来ましたか。」と訊けば、誰も来ないという。少し安心して宿に帰れば、かの小せんという芸者が店口に腰をかけて帳場にいる女房と何か話している。まんざら知らない顔でもなければ、予も挨拶しながら並んで腰をおろすと、小せんはゆうべいろいろの取調べを受けた話をして、被害者の磯貝は財産家の息子で非常の放蕩者なり、自分は彼の贔屓《ひいき》になっていたれど、兇行の当夜はほかの座敷に出ていて何事も知らざりしという。予はそれとなく探《さぐ》りを入れて、磯貝はお冬さんと何かわけでもあったのかと訊けば、小せんは断じてそんなことはあるまいという。予はいよいよ安心して自分の座敷に戻る。
 午後一時頃に田島さん再び来たる。被害者が資産家の息子だけに、この事件は東京の新聞にも詳しく掲載されてあるとの話なり。現に東京の新聞記者五、六名も田島さんと同じ汽車にて当地に入り込みたる由なれば、田島さんも競争して大いに活動するつもりらしく見ゆ。田島さんは宿で午飯を食いてすぐに出て行く。晴れたれども涼しい風がそよそよと吹く。――夕方に田島さん帰り来たりて、警察側の意見を予に話して聞かせる。兇行の嫌疑者に三種あり。第一は東京より磯貝のあとを追い来たりしものにて、彼の父は実業家とはいえ、金貸を本業として巨万の富を作りたる人物なれば、なにかの遺恨にて復讐の手をその子の上に加えしならんという説。第二は小せんの情夫にて、かれは鹿沼町の某会社の職工なりといえば、一種の嫉妬か、あるいは小せんと共謀して欲得のために磯貝を害せしやも知れずという説。第三はかのお冬の父の六兵衛ならんという説。折井君は頻りに第三の説を主張していれど、これは根拠が最も薄弱なりと田島さんはいう。予も同感なり。
 第二の説もいかがにや。欲心のために磯貝を害せしならば、紙入れや金時計をも奪い去るべき筈なるに、紙入れは引裂きたれど中味は無事なりしという。金時計も打毀《うちこわ》して捨ててあり。これから考えると、これも根拠が薄いようなり。ただし小せんはなんにも知らぬことにて、単に情夫の嫉妬と認むればこの説も相当に有力なるべし。こう煎じつめると、第一の説が最も確実らしいけれど、磯貝親子の人物についてなんにも知らざれば、予にはその当否の判断が付かず。ことに昨今は避暑客の出盛りにて、東京よりこの町に入り込みいる者おびただしければ、いちいち取調べるもなかなか困難なるべしと察せらる。
 夕飯を食ってしまうと、田島さんはまた出て行く。二階の窓から見あげると、大きい山の影は黒くそびえて、空にはもう秋らしい銀河《あまのがわ》が夢のように薄白く流れている。やがて田島さんが忙がわしく帰って来て、折井君はとうとう六兵衛老人を拘引《こういん》したという。予はなんだか腹立たしく感じられて、なにを証拠に拘引したかと鋭くきけば、田島さんも詳しいことは知らず。しかし現場にてきのう拾いたる巻煙草の空き箱に木屑の匂いが残っていたのと、それを振ったときに細かい木屑が少しばかりこぼれ出したとの、この二つにて兇行者が挽地物細工に関係あるものと鑑定したら
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