、再びその横着を責めた。かれは詐欺取財として六兵衛を告訴するといきまいて帰った。
お冬はもう堪《たま》らなくなった。このままにしておけば父が罪人にならなければならないので、彼女はすぐに磯貝のあとを追っていって、泣いて父の罪を詫びると、磯貝は少し相談があるから一緒に来いといって、無理に彼女を中禅寺の宿屋へ連れて行った。そうして、父の罪を救うのも救わないのもお前の料簡次第であると迫られた。その晩は山も崩れそうな大雷雨であった。お冬はそのあくる日も帰ることを許されなかった。夜になって磯貝が酔い倒れた隙をみて、彼女ははだしで宿屋をぬけ出して、暗い山路を半分夢中で駈け降りて帰った。可愛い娘がこれほどに凌辱《りょうじょく》されたことを知って、六兵衛は燃えるような息をついて磯貝を呪った。かれは仕事を投げ出してしまって、傷ついた野獣のように奥のひと間に唸りながら横になっていた。たましいも肉も無残にしいたげられたお冬は、幽霊のようになって空《むな》しく生きていた。
抑えられない憤怒《ふんぬ》と悔恨とに身をもがいて、六兵衛は自分の店に飼ってある小鳥をみな放してしまった。しかしこの事件の種である時鳥の雛だけは、どういう料簡かそのままに捨てて置いた。九日の午後に磯貝が中禅寺から帰って来て、もうこうなった以上はいっそ自分の妾になれとお冬に再び迫ったが、彼女はどうしても承知しなかった。それをきいて六兵衛のはらわたはいよいよ憤怒に焼けただれた。その翌晩の八時ごろに、磯貝が散歩に出て挽地物屋の前を通ると、六兵衛は籠のなかから時鳥の雛をつかみ出して、すぐに彼のあとを追って行った。そうして、二時間ほどの後に帰って来た。磯貝が冷たい死骸となって含満ヶ渕のほとりに発見されたのは、そのあくる朝であった。
「八日の晩にわたくしがいっそ中禅寺の湖水に飛び込んでしまえばよかったんです。なんだかむやみに家が恋しくなって、町まで帰って来たのが悪かったんです。」
お冬は泣いて悔《くや》んだ。彼女は自分の父が殺人の大きい罪を犯したのを悲しむと同時に、磯貝にしいたげられた自分のぬぐうべからざる汚辱《おじょく》を狭い町じゅうにさらすのを恐れた。彼女は父が今夜はいよいよ拘引されたのをみて、自分も決心した。磯貝の死に場所であった怖ろしい含満ヶ渕を、彼女も自分の死に場所と決めたのであった。
森君は無論お冬に同情した。身悶《みもだ》えして泣き狂っている彼女を慰めていたわって、再び挽地物屋の店へ連れて帰った。しかしお冬の家は親ひとり子ひとりで、その親は拘引されている。そのあき巣に娘ひとりを残して置いては、なんどきまた何事を仕出かすかも知れないという不安があるので、森君はお冬を自分の宿屋へ連れて帰って、主人にあらましの訳を話して、当分はここに置いてもらうことにした。
八月十二日の日記はこれで終っている。田島はその翌あさ帰った。それから十九日まで一週間の日記は甚だ簡単で、しかもところどころ抹殺してあるので殆ど要領を得ない。しかしお冬がその日まで森君の宿屋に一緒に泊っていたことは事実である。森君はあまり綿密に日記をつけている暇がなかったらしい。八月二十日以後の日記にはこういう記事が見えた。
二十日、晴。けさは俄かに秋風立つ。午後一時ごろに六兵衛老人は宇都宮から突然に帰って来る。おどろいてきけば、殺人の嫌疑は晴れたる由。老人はその以外には口をつぐんでなんにも言わず。お冬さんは嬉し涙をこぼして自分の家へ帰る。予も一緒に行く。近所の人たちも見舞に来る。めでたきこと限りなし。――夜七時頃にお冬さんがたずねて来て、二時間ほど語りて帰る。夜はもう薄ら寒きほどなり。当分当地に滞在する由をしたためて、東京の兄や友人らに郵書を送る。兄からは叱言《こごと》が来るかも知れねど是非なし。
二十一、二十二の二日間の日記には別に目立った記事もない。ただ森君がお冬さんと親しく往来していた事実を伝えているのみである。二十三日には折井探偵が再びこの町に姿をあらわしたと書いてある。芸妓の小せんは再び拘引された。それは磯貝から預かっていた金をそのまま着服したことが露見した為である。二十四日は無事。
二十五日、陰。微雨。――宇都宮から田島さん来たる。磯貝殺しの犯人は、鹿沼町の某会社の職工にて、昨夜再び日光の町へ入り込みしところを折井刑事に捕縛されたりという。その職工は小せんの情夫にはあらず、情夫の朋輩《ほうばい》にて小牧なにがしという者なり。田島さんの報告によれば、小牧は東京にて相当の生活を営《いとな》みいたりしが、磯貝の父のために財産を差押えられ、妻子にわかれて流転《るてん》の末に、鹿沼の町にて職工となりたる也。兇行の当夜は小せんの情夫と共に日光に来たり、ある料理店にて小せんと三人で遊んでいるうちに、小せんは二階から
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