往来をみおろして、あれは東京の磯貝という客だと教えしより、泥酔していた小牧は、むかしの恨みを思い出してむらむらと殺意を生じ、納涼《すずみ》に行く振りをして表へ飛び出し、彼のあとをつけて含満ヶ渕まで行くと、磯貝は誰やらとしきりに言い争っている様子なり。それがいよいよ彼の反感を挑発して、突然に飛びかかって磯貝の咽喉を絞めつけ、そこへ突き倒して逃げ帰りしなりという。
磯貝の言い争っていた男は即ち六兵衛老人なり。老人も磯貝のあとを追っ掛けて、無理無体に含満ヶ渕の寂しいところまで連れて行き、娘を凌辱したる罪を激しく責め、その償いに貴様の命をわたすか、但しはこの時鳥を慈悲心鳥として更に三千円の飼養料を払うかと、腕まくりの凄まじい権幕に談判し、磯貝がこれだけで勘弁してくれと百円ほど入れたる紙入れを突き出したるに、彼は怒ってずたずたに引裂いて捨て、磯貝が更に金時計を差し出したるに、これも石に叩きつけて打毀し、どうでも三千円を渡せと罵るところへ、かの小牧が突然に飛び込みて一言の問答にも及ばず、すぐに磯貝を絞め殺してしまいたり。これには六兵衛も呆気《あっけ》にとられて少しぼんやりと突っ立っていたるが、自分の眼のまえに倒れている磯貝の死骸をみると、彼は俄かに言い知れぬ恐怖におそわれ、掴んでいたる雛鳥を投げ捨てて、これも早々に逃げ帰りしなり。これらの事情判明して六兵衛はゆるされ、小牧は捕わる。まことに不思議の出来事だと田島さんはいう。
真の犯人が逮捕されるまでは、この事件に関する新聞の記事を差止められていたが、あしたからは差止め解禁となって何でも自由にかけると田島さんは大得意なり。記事差止めが解除となれば、あしたからは各新聞紙上にこの事件の真相が詳しく発表せらるるならん。犯人の小牧はもちろん、被害者の磯貝のことも、嫌疑者の六兵衛老人のことも……お冬さんのことも……。田島さんは今夜一泊。
二十六日、雨。けさの新聞を待ちかねて手に取れば、宇都宮の新聞は一|斉《せい》に筆をそろえて今度の事件を詳細に報道したり。八時頃お冬さんをたずねると、まだなんにも知らない様子なり。言って聞かせるのもあまりに痛々しければ黙っている。田島さんはいろいろの材料をあつめて昼頃に引揚げて行く。雨はびしょびしょと降りしきりて昼でも薄ら寒い日なり。月末に近づきて各旅館の滞在客もおいおいに減ってゆく。いつもながら避暑地の初秋は侘《わび》しきもの也。午後四時ごろに再びお冬さんを訪ねんとて、二階の階子《はしご》を降りて行くと、たった今お冬さんがこの手紙をほうり込んで行ったとて、女中が半紙を細かく畳んだのを渡してくれる。急いで明けてみると、――もうあなたにはお目にかかりません――。
森君の日記には、その後お冬さんについては何も書いていない。いや、書いたらしいが、みな抹殺してあるのでちっとも解らない。しかしお冬さんも六兵衛老人も決して無事ではなかったことは、、九月二日の記事を見ても知られた。
九月二日。きょうは二百十日の由にて朝より暴《あ》れ模様なり。もう思い切って宿を発つことにする。発つ前に○○寺に参詣して、親子の新しい墓を拝む。時どきに大粒の雨がふり出して、強い風は卒塔婆《そとば》を吹き飛ばしそうにゆする。その風の絶え間にこおろぎの声きれぎれにきこゆ。――午前十時何分の上りの汽車に乗る――。
森君が今日《こんにち》まで独身である理由もこれで大抵想像された。森君を乗せた汽車は今ごろ宇都宮に着いたかも知れない。森君の胸には旧《ふる》い疵が痛み出したかも知れない。わたしは日記の上から陰った眼をそむけた。
今夜の雨はまだやまない。
底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「慈悲心鳥」国文堂
1920(大正9)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
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