る戸山が原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情もなしに大きい枯枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建築と、東洋製菓会社の工場に聳《そび》えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙と、これだけの道具を列《なら》べただけでも大抵は想像が付くであろう、実に荒凉索莫、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さが一《ひ》としお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね」と、市内に住み馴れている家内の女たちはいった。
「むむ。どうも思ったほどに好くないな」と、わたしも少しく顔をしかめた。
 省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場のひびきも随分騒がしかった。戸山が原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、一々かぞえ立てたら色々あるので、わたしもここまで引込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣を
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