気をつけなければなるまいよ。」と、甚五郎はまた笑った。四郎兵衛は笑ってもいられなかった。
 しかもその後に何事も起らず、四郎兵衛はお夏という娘を貰って無事に暮らしていた。お安の消息は知れなかった。それが足掛け五年目のきょう、思いも寄らない所でめぐり逢って、四郎兵衛は幽霊に出逢ったように驚かされたのである。お安のかたき討はさざえのつぶてで済んだのではなかった。かれは江の島の宿まで執念ぶかく追って来たのである。その話によると、自分の恥かしい絵姿が江戸のうちの何処にか残っていると思うと、どうしても江戸にはいたたまれないので、喜多屋から無理に暇を取って京大坂を流れあるいて、去年から藤沢の叔母のもとへ帰って来たというのである。
 それはともかくも、お安は相変らず四郎兵衛にむかって、かの裸体画を返せと迫るのであった。
 その当時でさえも返せなかったものを、今となって返せるわけがないと、四郎兵衛は繰返して説明したが、お安は肯かない。ここで逢ったのを幸いに、江戸へ一緒に連れて行って、あの絵を戻せと言い張るので、四郎兵衛もほとほと持て余した。旅先で十分の用意もないから、せめてこれを小遣いにしろといって、彼は五両の金を差出したが、お安は金を貰いに来たのではないといって、その金を投げ返した。
 どうにもこうにも手がつけられないので、結局は又もや喧嘩となった。
 それを聞き付けた宿の者どもが寄って来て、たけり狂うお安を取押えて無理に表へ突き出してしまった。
「考えてみれば可哀そうなようでもありますが、何をいうにも半気違いのようになっていて、人の言うことが判らないので困ります。」と、四郎兵衛は話し終って又もや溜息をついた。
「それじゃあ、あしたも又来やあしないかね。」と、お杉も溜息まじりに言った。
「来るかも知れません。」
「こうと知ったら江の島なんぞへ来るのじゃあなかったねえ。」
「お安の叔母が藤沢にいるとは聞いてもいましたが、今じゃあすっかり忘れてしまって、うっかり来たのが間違いでした。」
「あしたは早朝にここを発って[#「発って」は底本では「発つて」]、鎌倉をまわって帰ろうよ。」
「それに限ります。」と、義助も言った。
「早く夜が明ければいいねえ。」と、お杉は言った。
 雨天ならばあしたも逗留という予定を変更して、雨が降ろうが、風が吹こうが、あしたは早々に出発と相談を決めて、三人はとも
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