をうけるわけには行かなかったが、実際はその以上に優遇された。牢名主の声がかりというので、彼は普通の囚人とは全然別格の待遇をうけて、他の囚人どもを手下のように使役するばかりでなく、三日に一度ぐらいは鰻飯などを食って贅沢に生活していた。たびたびの拷問をうけて、かれは定めて疲労衰弱したであろうと想像されるが、実際はそれと反対で、彼はますます肥満して入牢前よりは寧《むし》ろ壮健であるらしくみえた。生来虚弱の者は格別、壮健の者が幾回の拷問を凌いでくれば、いよいよ頑丈な体質になるものであると牢内ではいい伝えている。吉五郎はますます壮健になって、牢内の人気役者となって、新しい手拭を使って、うなぎ飯を食って、大威張りで日を送っていたのであった。
かれが最初に強情を張っているのは、一日でも生き延びようとする執着心か、あるいは係りの役人たちに対する一種の反感から湧いて来た意地ずくか、いずれはそんなものであったらしいのであるが、今日の彼は寧ろ一種の虚栄心ともいうべきものに支配されていた。一回でも拷問を堪えれば堪えるほど、かれの器量が上《あが》るのである。石川五右衛門の値打が加わるのである。牢内の者にも讃美され、優遇されるのである。所詮大罪は逃れぬと覚悟している以上、責め殺されるまでも強情を張り通して、自分の器量をあげた方がいいと考えたのは、彼として自然の人情であったともいえる。ただその拷問の苦痛に堪え得るか否かというのが問題であった。
こういうたぐいの罪人に対しては、理非をいい聞かせても無駄である。普通の拷問を加えても無効である。奉行所ではかれに対して更に惨酷なる拷問を加えることになって、九月二十二日には笞打のほかに海老責を行った。海老責は罪人を赤裸にして、先ず両手をうしろに縛りあげ、からだを前にかがめさせて、その両足を組みあわせて厳しく引っ縛り、更にその両足を頤《あご》にこすり付くまでに引きあげて、肩から背にかけて縛りつけるのであるから、彼は文字通りに海老のような形になって、押潰されたように平《へ》た張《ば》り伏しているのである。この拷問をうけるものは、はじめは惣身が赤くなり、更に暗紫色に変じて冷汗をしきりに流し、それがまた蒼白に変じるときは即ち絶命する時であるといい伝えられているので、皮膚に蒼白の色を呈するのを合図にその拷問を中止することになっていた。吉五郎はこの試錬をも通過して、無事に牢内に帰った。かれが今日は海老責に逢うことを牢屋附の下男の内報によって、牢内でも薄々承知していたので、ひそかにその安否を気配っていると、かれは問い落されもせず、責め殺されもせず、弱りながらも無事に帰って来たので、牢内の者どもは跳《おど》りあがって喜んだ。吉五郎は凱旋の将軍のように歓迎された。
十一月十一日、第二十回の拷問が行われて、かれは笞打のほかに石八枚を抱かされた。つづいて十二月二日には海老責に逢った。しかもかれが依然として屈伏しないこと勿論であった。それでこの年も未決のままに過ぎてしまって、吉五郎は牢内で第二回の春を迎えた。あくれば天保七の申年である。二月十三日に第二十二回の吟味が開かれて、かれは笞打と石九枚の拷問にかかった。三月二日には笞打と石十枚、四月四日には笞打と石九枚、それもみな無効に終った。かれは自ら作った拷問十八回のレコードを破って、更に二十四回の新レコードを作ったのであった。
四月十一日、奉行所ではいよいよ最後の手段として、かれに対して釣り責を行うことになった。まえにもいう通り、今までの笞打、石抱き、海老責は正式にいう拷問ではない。今度の釣し責が真の拷問である。牢問二十四回にしてなお屈伏しない罪人に対して、奉行所では初めて真の拷問を加うることになったのである。釣り責は青細引で罪人の両手をうしろに縛って、地上より三寸六分の高さまで釣りあげるのである。法は頗《すこぶ》る簡単のようであるが、責めらるる者に取ってはこれが最大の苦痛であるという。吉五郎は十一日と二十一日にこの拷問をうけた。これで最初から二十六回となるわけである。しかも彼は依然として屈伏しないばかりか、更に疲労衰弱のけしきも見えないので、係りの役人たちもほとほと持余《もてあま》してしまった。さりとてみすみすその罪状明白なる罪人をそのままに打捨てておくわけにも行かないので、奉行所では会議の結果、更に最後の手段を取ることになった。
最後の手段とは、かれが自白の有無にかかわらず、かれに対して裁判を下すのである。今日でいう認定裁判で、江戸時代ではこれを察斗詰《さとづめ》といった。しかし未決の罪人を察斗詰に行うのは滅多にその例がないことで、奉行一人の独断で取計うことは出来なかった。それはどうしても老中の許可を得なければならないので、吟味掛りの与力一同からそれぞれに意見書を呈出した。いずれ
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