江戸の化物
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)頻々《ひんぴん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)塚原|渋柿園《じゅうしえん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)祟《たたり》だ[#「祟《たたり》だ」は底本では「崇《たたり》だ」]
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池袋の女
江戸の代表的怪談といえば、まず第一に池袋の女というものを挙げなければなりません。
今日の池袋の人からは抗議が出るかもしれませんが、どういうものか、この池袋の女を女中などに使いますと、きっと何か異変があると言い伝えられて、武家屋敷などでは絶対に池袋の女を使わないことにしていたということです。また、町家などでも池袋の女を使うことを嫌がりましたので、池袋の女の方でも池袋ということを隠して、大抵は板橋とか雑司ヶ谷とかいって奉公に出ていたのだそうです。
それも、女が無事におとなしく勤めている分には別になんの仔細もなかったのですが、もし男と関係でもしようものなら、忽ち怪異が頻々《ひんぴん》として起こるというのです。
これは、池袋の女が七面様の氏子なので、その祟《たたり》だ[#「祟《たたり》だ」は底本では「崇《たたり》だ」]といわれていましたが、それならば不埓《ふらち》を働いた当人、即ち池袋の女に祟れば[#「祟れば」は底本では「崇れば」]よさそうなものですが、本人にはなんの祟も[#「祟も」は底本では「崇も」]なくて、必ずその女の使われている家へ祟る[#「祟る」は底本では「崇る」]のだそうです。まったく理窟では判断がつきませんが、まず家が揺れたり、自然に襖《ふすま》が開いたり、障子の紙が破れたり、行灯《あんどん》が天井に吸い付いたり、そこらにある物が躍《おど》ったり、いろいろの不思議があるといいます。
こういうことがあると、まず第一に池袋の女を詮議することになっていましたが、果してその蔭には必ず池袋の女が忍んでいたということです。
これは私の父なども親しく見たということですが、麻布の龍土町(いまの港区六本木七丁目六〜八番)に内藤紀伊守の下屋敷がありました。この下屋敷というところは、多く女子供などが住んでいるのです。
ある夜のことでした。何処からとなく沢山の蛙が出て来てぴょこぴょこと闇に動いていましたが、いつとはなしに女たちの寝ている蚊帳《かや》の上にあがって、じっとつくばっていたということです。それを見た女たちの騒ぎは、どんなであったでしょう。
すると、こんどは家がぐらぐらとぐらつき出したので、騒ぎはますます大きくなって、上屋敷からも武士が出張するし、また他藩の武士の見物に行った者などが交じって、そこらを調べて見ましたが、さっぱり訳が判りません。そこで狐狸《こり》の仕業ということになって屋敷中を狩り立てましたが、狐や狸はさておき、かわうそ一疋も出なかったということです。で、その夜は十畳ばかりの屋敷に十四、五人の武士が不寝番《ねずのばん》をすることになりました。
ところが、夜もだんだん更けゆくにつれ、行灯の火影も薄暗くなって、自然と首が下がるような心持になると、どこからとなく、ぱたりぱたりと石が落ちてくるのです。皆の者がしゃんとしている間は何事もないのですが、つい知らずに首が下がるにつれて、ぱたりぱたりと石が落ちてくるので、「これはどうしても狐狸の仕業に相違ない。ためしに空鉄砲を放してみよう」といって、井上某が鉄砲を取りに立とうとすると、ぽかりと切石が眉間《みけん》に当たって倒れました。
こんどは他の者が代わって立とうとすると、また、その者の横鬢《よこびん》のところに切石が当たったので、もう誰も鉄砲を[#「鉄砲を」は底本では「鉄砲に」]取りに行こうという者もありません。互いに顔を見合わせているばかりでしたが、ある一人が「石の落ちてくるところは、どうも天井らしい」と、いい終わるか終わらぬうちに、ぱっと畳の間から火を吹き出したそうです。
こういうような怪異のことが、約三月くらい続いているうちに、ふとかの地袋の女ということに気がついて、下屋敷の女たちを厳重に取調べたところが、果して池袋から来ている女中があって、それが出入りの者と密通していたということが知れました。
で、この女中を追い出してしまいますと、まるで嘘のように不思議なことが止んだということです。
これも塚原|渋柿園《じゅうしえん》の直話《じきわ》ですが、牛込の江戸川橋のそばに矢柄《やがら》何某という槍の先生がありました。この家に板橋在の者だといって住み込んだ女中がありましたが、どうも池袋の女らしいので、そのことを細君から主人に告げて、今のうちに暇を出してしまいたいといいますと、さすがは槍の先生だけあって、「実は池袋の女の不思議を見たいと思っていたのだが、ちょうど幸いである。そのままにしておけ」ということで、細君も仕方なしに知らぬ振りをしていましたが、別になんのこともなかったそうです。
ところがある日、主人公が食事をしている時でした。給仕をしている細君があわてて飯櫃《めしびつ》を押さえていますので、どうしたのかと聞くと、飯櫃がぐるぐる廻り出したというのです。
矢柄先生はそれを非常に面白がられて、ぐるぐると廻っている飯櫃をじっと見ていましたが、やがて庭の方の障子を開けますと、飯櫃はころころと庭に転げ落ちて、だんだん往来の方へ転げて行きます。で、稽古に来ている門弟たちを呼んでそのあとをつけさせますと、飯櫃は中の橋の真ん中に止まって、逆様《さかさま》に伏せって動かなくなったので、それを取ってみますとすっかり飯が減っていたということです。
これを調べて見ると、その池袋の女中が近所の若い者といたずらをしていたということが判りました。女中も驚いて自分から暇を取ろうとしましたが、先生は面白がってどうしても暇をやらなかったので、とうとういたたまらなくなって、女も無断で逃げていってしまったということです。この種の怪談が江戸時代にも沢山ありました。
天狗や狐憑き、河童など
天狗に攫《さら》われるということも、随分沢山あったそうです。もちろんこれには嘘もあり、本当もあり、一概にはいえないのですが、とにかくに天狗に攫われるような者は、いつもぼんやりして意識の明瞭を欠いていた者が多かったそうです。従って、「あいつは天狗に攫われそうな奴だ」というような言葉があったくらいです。これは十日くらいの間、行方不明になっていて、どこからかふらりと戻って来るのです。
これらは科学的に説明すれば、いろいろの解釈がつくのですが、江戸時代ではまず怪談の一つとして数えていました。
狐憑《きつねつき》、これもなかなか多かったようですが、一種の神経衰弱者だったのでしょう。この時代には「狐憑」もあれば、「狐使い」もありました。狐を使う者は飯綱《いいづな》の行者だと言い伝えられていました。そのほかに管狐《くだぎつね》を使う者もありました。
管狐というのは、わざわざ伏見の稲荷へ行って管の中へ狐を入れて来るので、管の中へ入れられた狐は管から出してくれといって、途中で泣き騒いでいたということですが、もう箱根を越すと静かになるそうです。
昔は狐使いなどといって、他に嫌がられながらも一方にはまた恐れられ、種々の祈祷料などをもらっていたのですが、今日では狐を使う行者などは跡を絶ちました。
この狐憑は、狐が落ちさえすればけろりと治ってしまいますが、治らずに死ぬ者もありました。
河童《かっぱ》は筑後の柳川が本場だとか聞いていますが、江戸でも盛んにその名を拡めています。これはかわうそと亀とを合併して河童といっていたらしく、川の中で足などに搦《から》みつくのは大抵は亀だそうです。
この河童というものが、江戸付近の川筋にはよく出たものです。どういう訳か、葛西《かさい》の源兵衛(源兵衛堀―いまの北|十間《じっけん》川のこと)が名所になっています。
徳川の家来に福島|何某《なにがし》という武士がありました。ある雨の夜でしたが、虎の門の濠端《ほりばた》を歩いていました。この濠のところを俗にどんどんといって、溜池の水がどんどんと濠に落ちる落口になっていたのです。
その前を一人の小僧が傘もささずに、びしょびしょと雨に濡れながら裾を引き摺って歩いているので、つい見かねて「おい、尻を端折《はしょ》ったらどうだ」といってやりましたが、小僧は振り向きもしないので、こんどは命令的に「おい、尻を端折れ」といいましたが、小僧は相変わらず知らぬ顔をしています。で、つかつかと寄って、後ろから着物の裾をまくると、ぴかっと尻が光ったので、「おのれ」といいざま襟に手をかけて、どんどんの中へ投げ込みました。
が、あとで、もしそれが本当の小僧であっては可哀相だと思って、翌日そこへ行って見ましたが、それらしき死骸も浮いていなければ、そんな噂もなかったので、まったくかわうそだったのだろうと、他に語ったそうです。
芝の愛宕山の下〔桜川の大溝〕などでも、よくかわうそが出たということです。
それは多く雨の夜なのですが、差している傘の上にかわうそが取りつくので、非常に持ち重りがするということです。そうして顔などを引っ掻かれることなどがあったそうですが、武士などになると、そっと傘を手許に下げておよその見当をつけ、小柄《こづか》を抜いて傘越しにかわうそを刺し殺してしまったということです。
中村座の役者で、市川ちょび助という宙返《ちゅうがえ》りの名人がありました。やはり雨の降る晩でしたが、芝居がはねて本所の宅へ帰る途中で遭ったそうです。差している傘が石のように重くなって、ひと足も歩くことができなくなったので、持前の芸を出して、傘を差したまま宙返りをすると、かわうそが大地に叩きつけられて死んでいた、ということです。
日比谷の亀も有名でした。桜田見附から日比谷へ行く濠の底に大きい亀が棲《す》んでいたということで、この亀が浮き出すと濠一杯になったと言い伝えられています。亀が浮くと、龍《たつ》の口《くち》の火消屋敷の太鼓を打つことになっていました。その太鼓の音に驚いて、大亀は沈んでしまうといいます。しかし、その亀を見た者はないようです。
蝦蟇や朝顔屋敷など
麻布の蝦蟇《がま》池(港区元麻布二丁目一〇番)、この池は山崎|主税之助《ちからのすけ》という旗本の屋敷の中にありましたが、ある夏の夕暮でした。ここへ来客があって、池に向かった縁側のところで、茶を飲みながら話をしていましたが、そこへ置いてある菓子器の菓子が、夕闇の中をふいふいと池の方へ飛んでゆきます。二人は不思議に思って、菓子の飛んでゆく方へ眼をつけますと、池の中に大きな蝦蟇がいて、その蝦蟇が菓子を吸っているのでした。主人主税之助はひどく立腹して「翌日は池を替え、乾かしてしまう」と言いました。
するとその夜、主税之助が寝ているところへ池の蝦蟇がやって来まして、「どうか助けてくれ」と頼みました。そうして、「もし火事などのある場合には、水を吹いて火事を防ぐから」というようなことをいいました。
しかし、主税之助は、「ただ火事の時に水を吹いて火を消すというだけではいけない。それは俺《おれ》の一家の利益に過ぎない。なにか広い世間のためになることをするというならば許してやろう」といいますと、蝦蟇は、「では、火傷《やけど》の呪《まじない》を教えましょう」といって、火傷の呪を教えてくれたそうで、その伝授に基いて、山崎家から「上の字」のお守を出していました。それが不思議に利くそうです。
お守りは熨斗形《のしがた》の小さいもので、表面《おもて》に「上」という字を書いてその下に印を押してあります。その印のところで火傷を撫《な》でるのですが、なんでも印のところに秘方の薬がつけてあるということです。
錦袋円《きんたいえん》の娘、池の端《はた》(いまの台東区池之端一丁目一番、同上野二丁目一一・一二番)に錦袋円という有名な薬屋
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