経帷子の秘密
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)駕籠《かご》が
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(例)足|拵《ごしら》えを
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(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》
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一
吉田君は語る。
万延元年――かの井伊大老の桜田事変の年である。――九月二十四日の夕七つ半頃(午後五時)に二挺の駕籠《かご》が東海道の大森を出て、江戸の方角にむかって来た。
その当時、横浜《ハマ》見物ということが一種の流行であった。去年の安政六年に横浜の港が開かれて、いわゆる異人館《いじんかん》が続々建築されることになった。それに伴って新しい町は開かれる、遊廓も作られる、宿屋も出来るというわけで、今までは葦芦《よしあし》の茂っていた漁村が、わずかに一年余りのあいだに、眼をおどろかすような繁華の土地に変ってしまった。それが江戸から七里、さのみ遠い所でもないので、東海道を往来の旅びとばかりでなく、江戸からわざわざ見物にゆく者がだんだんに多くなった。いつの代《よ》も流行は同じことで、横浜を知らないでは何だか恥かしいようにも思われて来たのである。
今この駕籠に乗っている客も、やはり流行の横浜見物に行った帰り道であった。かれらは芝の田町《たまち》の近江屋という質屋の家族で、女房のお峰はことし四十歳、娘のお妻は十九歳である。近江屋は土地でも古い店で、お妻は人並に育てられ、容貌《きりょう》は人並以上であったが、この時代の娘としては縁遠い方で、ことし十九になるまで相当の縁談がなかった。家には由三郎という弟があるので、お妻はどうでも他家へ縁付かなければならない身の上であるが、今もなお親の手もとに養われていた。
近江屋の親類でこの春から横浜に酒屋をはじめた者がある。それから横浜見物に来いとたびたび誘われるので、女房のお峰は思い切って出かけることになった。由三郎はまだ十六でもあり、殊に男のことであるから、この後に出かける機会はいくらもある。お妻は女の身で、他家へいったん縁付いてしまえば、めったに旅立ちなどは出来ないのであるから、今度の見物には姉のお妻を連れて行くことにして、ほかに文次郎という若い者が附添って、おとといの朝早く田町の店を出た。
お妻は十九の厄年であるというので、その途中でまず川崎の厄除大師《やくよけだいし》に参詣した。それから横浜の親類の酒屋をたずねて、所々の見物にきのう一日を暮らした。横浜にふた晩泊って、三日目に江戸へ帰るというのが最初からの予定であるので、きょうは朝のうちに見残した所をひとめぐりして、神奈川の宿《しゅく》まで親類の者に送られて、お峰とお妻の親子は駕籠に乗った。文次郎は足|拵《ごしら》えをして徒歩《かち》で付いて来た。
川崎の宿《しゅく》で駕籠をかえて、大森へさしかかった時に、お峰は近所の子供へ土産をやるのだといって名物の麦わら細工などを買った。そんなことで暇取《ひまど》って大森を出た二挺の駕籠が今や鈴ヶ森に近くなった頃には、旧暦の九月の日は早くも暮れかかって、海辺のゆう風が薄寒く身にしみた。
「お婆さん。お前さんはどこまで行くのだ。」と、文次郎は見かえって訊《き》いた。文次郎は十一の春から近江屋に奉公して、ことし二十三の立派な若い者である。
一行の駕籠が大森を出る頃から、年ごろは六十あまり、やがては七十にも近いかと思われる老婆が杖も持たずに歩いて来る。それだけならば別に子細《しさい》もないのであるが、その老婆は乗物におくれまいとするように急いで来るのである。
駕籠は男ふたりが担いでいるのである。附添いの文次郎も血気の若者である。それらが足を早めてゆく跡から、七十に近い老婆がおくれまいと付いて来るのは無理であるように思われた。実際、杖も持たないで腰をかがめ、息をはずませて、危く倒れそうによろめきながら、歩きつづけているのであった。
文次郎の眼にはそれが気の毒にも思われた。また一面には、それが不思議のようにも感じられた。日が暮れかかって、独り歩きの不安から、この婆さんは自分たちのあとに付いて来るのであろうかとも考えたので、彼は見返ってその行く先をきいたのである。
「はい。鮫洲《さめず》までまいります。」
「鮫洲か。じゃあ、もう直ぐそこだ。」
「それでも年を取っておりますので……。」と、老婆は息を切りながら答えた。
「杖はないのだね。」
「包みを抱えておりますので、杖は邪魔だと思いまして……。」
かれは浅黄色の小さい風呂敷包みを持っていた。この問答のうちに、夕暮れの色はいよいよ迫って来たので、駕籠屋は途中で駕籠を立てて、提灯に蝋燭《ろうそく》の灯を入れることになった。それを待つあいだに、文次郎はまた訊いた。
「それにしても、なぜ私たちのあとを追っかけて来るのだ。ひとりでは寂しいのかえ。」
「はい。日が暮れると、ここらは不用心でございます。わたくしは少々大事な物をかかえておりますので……。」
「よっぽど大事なものかえ。」と、文次郎は浅黄色の風呂敷包みに目をつけた。
「はい。」
駕籠屋の灯に照らし出された老婆は、その若い時を偲《しの》ばせるような、色の白い、人品のよい女であった。木綿物ではあるが、見苦しくない扮装《いでたち》をしていた。
「しかし年寄りの足で私たちの駕籠に付いて来ようとするのは無理だね。転《ころ》ぶとあぶないぜ。」
言ううちに、駕籠は再びあるき出したので、文次郎も共にあるき出した、老婆もやはり続いて来た。鈴ヶ森の畷《なわて》ももう半分ほど行き過ぎたと思うころに、老婆はつまずいて、よろけて、包みを抱えたままばったりと倒れた。
「それ、見なさい、言わないことじゃあない。それだから危ないというのだ。」
文次郎は引っ返して老婆を扶《たす》け起そうとすると、かれは返事もせずにあえいでいた。疲れて倒れて、もう起きあがる気力もないらしいのである。
「困ったな。」と、文次郎は舌打ちした。
さっきから駕籠のうちで、お峰の親子はこの問答を聞いていたのであるが、もうこうなっては聞き捨てにならないので、お峰は駕籠を停めさせて垂簾《たれ》をあげた。
「その婆さんは起きられないのかえ。」
「息が切れて、もう起きられないようです。」と、文次郎は答えた。
お妻も駕籠の垂簾をあげて覗《のぞ》いた。
「鮫洲まで行くのだということだね。それじゃあそこまで私の駕籠に乗せて行ってやったらどうだろう。」
「そうしてやればいいけれど……。」と、お峰も言った。「それじゃあ私がおりましょう。」
「いいえ、おっ母さん。わたしがおりますよ。わたしはちっと歩きたいのですから。」
旅|馴《な》れない者が駕籠に長く乗り通しているのは楽でない。年のわかいお妻が少し歩きたいというのも無理ではないと思ったので、母も強《し》いては止めなかった。
お妻が草履《ぞうり》をはいて出ると、それと入れ代りに、老婆が文次郎と駕籠屋に扶けられて乗った。お妻を歩かせる以上、駕籠を早めるわけにもいかないので、鮫洲の宿に着いた頃には、その日もまったく暮れ果てていた。
「ありがとうございました。お蔭さまで大助かりをいたしました。」
駕籠を出た老婆は繰返して礼を述べて、近江屋の一行に別れて行った。年寄りをいたわってやって、よい功徳《くどく》をしたようにお峰親子は思った。しかもそれは束《つか》の間《ま》で、老婆と入れ代って駕籠に乗ったお妻は忽《たちま》ちに叫んだ。
「あれ、忘れ物をして……。」
老婆は大事の物という風呂敷包みを置き忘れて行ったのである。文次郎も駕籠屋らもあわてて見まわしたが、かれの姿はもうそこらあたりに見いだされなかった。当てもなしにお婆さんお婆さんと呼んでみたが、どこからも返事の声は聞かれなかった。
「あれほど大事そうに言っていながら、年寄りのくせにそそっかしいな。」
口叱言《くちこごと》を言いながら、文次郎は駕籠屋の提灯を借りて、その風呂敷をあけてみた。一種の好奇心もまじって、お妻も覗いた。お峰も垂簾《たれ》をあげた。
「あっ。」
驚きと恐れと一つにしたような異様の叫び声が、人々の口を衝《つ》いて出た。風呂敷に包《つつ》まれた物というのは、白い新しい経帷子《きょうかたびら》であった。
二
かの老婆がなぜこんな物をかかえ歩いていたのか。考えようによっては、さのみ怪しむべきことでもないかも知れない。自分の親戚あるいは知人の家に不幸があって、かれは経帷子を持参する途中であったかも知れない。かれは年寄りのくせに路を急いだのも、それがためであったのかも知れない。心せくままに、かれはそれを駕籠のなかに置き忘れて去ったのかも知れない。
もしそうならば、かれもおどろいて引っ返して来るであろう。近江屋は芝の田町で、高輪《たかなわ》に近いところであるから、ここからも遠くはない。そこで文次郎は迷惑な忘れ物をかかえて、暫くここに待合せていることにして、お峰親子の駕籠はまっすぐに江戸へ帰った。
自分の店へ帰り着いて親子はまずほっ[#「ほっ」に傍点]とした。隠して置くべきことでもないので、お峰はかの老婆と経帷子の一条を夫にささやくと、亭主の由兵衛も眉《まゆ》をよせた。それに対する由兵衛の判断も、大抵は前に言ったような想像に過ぎなかったが、何分にもそれが普通の品物と違うので、人々の胸に一種の暗い影を投げかけた。殊にその時代の人々は、そんなことを忌《い》み嫌うの念が強かったので、縁起が悪いとみな思った。そうして、それが何かの不吉の前兆であるかのようにも恐れられた。
夜がふけて文次郎が帰って来た。彼は鮫洲の宿《しゅく》をうろ付いて、一|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》ほども待っていたが、老婆は遂に引っ返して来ないので、よんどころなくかの風呂敷包みをかかえて戻ったというのである。
「こんなことが近所にきこえると、何かの噂《うわさ》がうるさい。知れないように捨てて来い。」と、由兵衛は言った。
文次郎は再びその包みを抱え出して、夜ふけを幸いに、高輪の海へ投げ込んでしまった。それを知っているのは、由兵衛夫婦とお妻だけで、忰《せがれ》の由三郎も他の奉公人らもそんな秘密をいっさい知らなかった。
横浜見物のみやげ話も何となく浮き立たないで、お峰親子は暗い心持のうちに幾日を送った。取分けて、お妻はかの怪しい老婆から不吉な贈りものを受けたようにも思われて、横浜行きが今更のように悔まれた。厄除大師を恨むようにもなった。なまじいの情けをかけずに、いっそかの老婆を見捨てて来ればよかったとも思った。女房や娘の浮かない顔色をみて、由兵衛は叱るように言い聞かせた。
「もう済んでしまったことを、いつまで気にかけているものじゃあない。物事は逆《さか》さまというから、却ってめでたいことが来るかも知れない。刃物で斬られた夢を見れば、金が身に入るといって祝うじゃあないか。」
由兵衛はそれを本気で言ったのか、あるいは一時の気休めに言ったのか知らないが、不思議にもそれが適中して、果たして目出たいことが来た。それから十日《とうか》も経たないうちに、今まで縁遠かったお妻に対して結構な縁談を申込まれたのである。
淀橋の柏木成子町に井戸屋という古い店がある。井戸屋といっても井戸掘りではなく、酒屋である。先祖は小田原北条の浪人井戸なにがしで、ここに二百四、五十年を経る旧家と誇っているだけに、店も大きく、商売も手広く、ほかに広大の土地や田畑も所有して、淀橋界隈では一、二を争う大身代《おおしんだい》と謳《うた》われている。その井戸屋へ嫁入りの相談を突然に申込まれて、近江屋でも少しく意外に思ったくらいであった。しかもその媒妁《ばいしゃく》に立ったのは、お峰の伯父にあたる四谷大木戸前の万屋《よろずや》という酒屋の亭主で、世間にあり触れた不誠意の媒妁口ではないと思われるので、近江屋の
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