に話して聞かせてくれる。その老人が何か子細ありげな顔をして、鯉の洗肉に箸を付けないのを見て、わたしはかさねて訊いた。
「どんなわけがあるんですか。」
「いや。」と、梶田さんは笑った。「みんながうまそうに食べている最中《さなか》に、こんな話は禁物だ。また今度話すことにしよう。」
その遠慮には及ばないから話してくれと、みんなも催促した。今夜の余興に老人のむかし話を一度聴きたいと思ったからである。根が話好きの老人であるから、とうとう私たちに釣り出されて、物語らんと坐を構えることになったが、それが余り明るい話でないらしいのは、老人が先刻からの顔色で察せられるので、聴く者もおのずと形をあらためた。
まだその頃のことであるから、ここらの料理屋では電燈を用いないで、座敷には台ランプがともされていた。二階の下には小さい枝川が流れていて、蘆や真菰《まこも》のようなものが茂っている暗いなかに、二、三匹の蛍が飛んでいた。
「忘れもしない、わたしが二十歳《はたち》の春だから、嘉永六年三月のことで……。」
三月といっても旧暦だから、陽気はすっかり春めいていた。尤もこの正月は寒くって、一月十六日から三日つ
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