岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)中《ちゅう》二階の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)新堀|端《ばた》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あっ[#「あっ」に傍点]と
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     一

 日清戦争の終った年というと、かなり遠い昔になる。もちろん私のまだ若い時の話である。夏の日の午後、五、六人づれで向島へ遊びに行った。そのころ千住の大橋ぎわにいい川魚料理の店があるというので、夕飯をそこで食うことにして、日の暮れる頃に千住へ廻った。
 広くはないが古雅な構えで、私たちは中《ちゅう》二階の六畳の座敷へ通されて、涼しい風に吹かれながら膳にむかった。わたしは下戸であるのでラムネを飲んだ。ほかにはビールを飲む人もあり、日本酒を飲む人もあった。そのなかで梶田という老人は、猪口《ちょこ》をなめるようにちびりちびりと日本酒を飲んでいた。たんとは飲まないが非常に酒の好きな人であった。
 きょうの一行は若い者揃いで、明治生れが多数を占めていたが、梶田さんだけは天保五年の生れというのであるから、当年六十二歳のはずである。しかも元気のいい老人で、いつも若い者の仲間入りをして、そこらを遊びあるいていた。大抵の老人は若い者に敬遠されるものであるが、梶田さんだけは例外で、みんなからも親しまれていた。実はきょうも私が誘い出したのであった。
「千住の川魚料理へ行こう。」
 この動機の出たときに、梶田さんは別に反対も唱えなかった。彼は素直に付いて来た。さてここの二階へあがって、飯を食う時はうなぎの蒲焼ということに決めてあったが、酒のあいだにはいろいろの川魚料理が出た。夏場のことであるから、鯉の洗肉《あらい》も選ばれた。
 梶田さんは例の如くに元気よくしゃべっていた。うまそうに酒を飲んでいた。しかも彼は鯉の洗肉には一箸も付けなかった。
「梶田さん。あなたは鯉はお嫌いですか。」と、わたしは訊いた。
「ええ。鯉という奴は、ちょいと泥臭いのでね。」と、老人は答えた。
「川魚はみんなそうですね。」
「それでも、鮒や鯰は構わずに食べるが、どうも鯉だけは……。いや、実は泥臭いというばかりでなく、ちょっとわけがあるので……。」と、言いかけて彼は少しく顔色を暗くした。
 梶田老人はいろいろのむかし話を知っていて、いつも私たちに話して聞かせてくれる。その老人が何か子細ありげな顔をして、鯉の洗肉に箸を付けないのを見て、わたしはかさねて訊いた。
「どんなわけがあるんですか。」
「いや。」と、梶田さんは笑った。「みんながうまそうに食べている最中《さなか》に、こんな話は禁物だ。また今度話すことにしよう。」
 その遠慮には及ばないから話してくれと、みんなも催促した。今夜の余興に老人のむかし話を一度聴きたいと思ったからである。根が話好きの老人であるから、とうとう私たちに釣り出されて、物語らんと坐を構えることになったが、それが余り明るい話でないらしいのは、老人が先刻からの顔色で察せられるので、聴く者もおのずと形をあらためた。
 まだその頃のことであるから、ここらの料理屋では電燈を用いないで、座敷には台ランプがともされていた。二階の下には小さい枝川が流れていて、蘆や真菰《まこも》のようなものが茂っている暗いなかに、二、三匹の蛍が飛んでいた。
「忘れもしない、わたしが二十歳《はたち》の春だから、嘉永六年三月のことで……。」

 三月といっても旧暦だから、陽気はすっかり春めいていた。尤もこの正月は寒くって、一月十六日から三日つづきの大雪、なんでも十年来の雪だとかいう噂だったが、それでも二月なかばからぐっと余寒がゆるんで、急に世間が春らしくなった。その頃、下谷の不忍《しのばず》の池浚いが始まっていて、大きな鯉や鮒が捕れるので、見物人が毎日出かけていた。
 そのうちに三月の三日、ちょうどお雛さまの節句の日に、途方もない大きな鯉が捕れた。五月の節句に鯉が捕れたのなら目出たいが、三月の節句ではどうにもならない。捕れた場所は浅草堀――といっても今の人には判らないかも知れないが、菊屋橋の川筋で、下谷に近いところ。その鯉は不忍の池から流れ出して、この川筋へ落ちて来たのを、土地の者が見つけて騒ぎ出して、掬い網や投網《とあみ》を持ち出して、さんざん追いまわした挙句に、どうにか生捕ってみると、何とその長さは三尺八寸、やがて四尺に近い大物であった。で、みんなもあっ[#「あっ」に傍点]とおどろいた。
「これは池のぬしかも知れない、どうしよう。」
 捕りは捕ったものの、あまりに大きいので処分に困った。
「このまま放してやったら、大川へ出て行くだろう。」
 とは言ったが、この獲物を再び放してやるのも惜しいので、いっそ観世物に売ろうかと
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