いう説も出た。いずれにしても、こんな大物を料理屋でも買う筈がない。思い切って放してしまえと言うもの、観世物に売れと言うもの、議論が容易に決着しないうちに、その噂を聞き伝えて大勢の見物人が集まって来た。その見物人をかき分けて、一人の若い男があらわれた。
「大きいさかなだな。こんな鯉は初めて見た。」
 それは浅草の門跡《もんぜき》前に屋敷をかまえている桃井弥十郎という旗本の次男で弥三郎という男、ことし廿三歳になるが然るべき養子さきもないので、いまだに親や兄の厄介になってぶらぶらしている。その弥三郎がふところ手をして、大きい鯉のうろこが春の日に光るのを珍しそうに眺めていたが、やがて左右をみかえって訊いた。
「この鯉をどうするのだ。」
「さあ、どうしようかと、相談中ですが……。」と、そばにいる一人が答えた。
「相談することがあるものか、食ってしまえ。」と、弥三郎は威勢よく言った。
 大勢は顔をみあわせた。
「鯉こくにするとうまいぜ。」と、弥三郎はまた言った。
 大勢はやはり返事をしなかった。鯉のこくしょう[#「こくしょう」に傍点]ぐらいは誰でも知っているが、何分にもさかなが大き過ぎるので、殺して食うのは薄気味が悪かった。その臆病そうな顔色をみまわして、弥三郎はあざ笑った。
「はは、みんな気味が悪いのか。こんな大きな奴は祟るかも知れないからな。おれは今までに蛇を食ったこともある、蛙を食ったこともある。猫や鼠を食ったこともある。鯉なぞは昔から人間の食うものだ。いくら大きくたって、食うのに不思議があるものか。祟りが怖ければ、おれに呉れ。」
 痩せても枯れても旗本の次男で、近所の者もその顔を知っている。冷飯《ひやめし》食いだの、厄介者だのと陰《かげ》では悪口をいうものの、さてその人の前では相当の遠慮をしなければならない。さりとて折角の獲物を唯むざむざと旗本の次男に渡してやるのも惜しい。大勢は再び顔をみあわせて、その返事に躊躇していると、又もや群集をかき分けて、ひとりの女が白い顔を出した。女は弥三郎に声をかけた。
「あなた、その鯉をどうするの。」
「おお、師匠か。どうするものか、料《りょう》って食うのよ。」
「そんな大きいの、うまいかしら。」
「うまいよ。おれが請合う。」
 女は町内に住む文字友という常磐津の師匠で、道楽者の弥三郎はふだんからこの師匠の家《うち》へ出這入りしている。文字友は弥三郎より二つ三つ年上の廿五六で、女のくせに大酒飲みという評判の女、それを聞いて笑い出した。
「そんなにうまければ食べてもいいけれど、折角みんなが捕ったものを、唯貰いはお気の毒だから……。」
 文字友は人々にむかって、この鯉を一朱で売ってくれと掛合った。一朱は廉いと思ったが、実はその処分に困っているところであるのと、一方の相手が旗本の息子であるのとで、みんなも結局承知して、三尺八寸余の鯉を一朱の銀《かね》に代えることになった。文字友は家から一朱を持って来て、みんなの見ている前で支払った。
 さあ、こうなれば煮て食おうと、焼いて食おうと、こっちの勝手だという事になったが、これほどの大鯉に跳ねまわられては、とても抱えて行くことは出来ないので、弥三郎はその場で殺して行こうとして、腰にさしている脇指を抜いた。
「ああ、もし、お待ちください……。」
 声をかけたのは立派な商人ふうの男で、若い奉公人を連れていた。しかもその声が少し遅かったので、留める途端に弥三郎の刃はもう鯉の首に触れていた。それでも呼ばれて振返った。
「和泉屋か。なぜ留める。」
「それほどの物をむざむざお料理はあまりに殺生《せっしょう》でござります。」
「なに、殺生だ。」
「きょうはわたくしの志す仏の命日でござります。どうぞわたくしに免じて放生会《ほうじょうえ》をなにぶんお願い申します。」
 和泉屋は蔵前の札差《ふださし》で、主人の三右衛門がここへ通りあわせて、鯉の命乞いに出たという次第。桃井の屋敷は和泉屋によほどの前借がある。その主人がこうして頼むのを、弥三郎も無下《むげ》に刎ねつけるわけには行かなかった。そればかりでなく、如才《じょさい》のない三右衛門は小判一枚をそっと弥三郎の袂に入れた。一朱の鯉が忽ち一両に変ったのであるから、弥三郎は内心大よろこびで承知した。
 しかし鯉は最初の一突きで首のあたりを斬られていた。強いさかなであるから、このくらいの傷で落ちるようなこともあるまいと、三右衛門は奉公人に指図してほかへ運ばせた。
 ここまで話して来て、梶田老人は一息ついた。
「その若い奉公人というのは私だ。そのときちょうど二十歳《はたち》であったが、その鯉の大きいにはおどろいた。まったく不忍池の主かも知れないと思ったくらいだ。」

     二

 新堀|端《ばた》に龍宝寺という大きい寺がある。それが和泉屋
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