の菩提寺で、その寺参りの帰り途にかの大鯉を救ったのであると、梶田老人は説明した。鯉は覚悟のいいさかなで、ひと太刀をうけた後はもうびくともしなかったが、それでも梶田さん一人の手には負えないので、そこらの人達の助勢を借りて、龍宝寺まで運び込んだ。寺内には大きい古池があるので、傷ついた魚はそこに放された。鯉はさのみ弱った様子もなく、洋々と泳いでやがて水の底に沈んだ。
 仏の忌日にいい功徳をしたと、三右衛門はよろこんで帰った。しかも明くる四日の午《ひる》頃に、その鯉が死んで浮きあがったという知らせを聞いて、彼はまた落胆した。龍宝寺の池はずいぶん大きいのであるが、やはり最初の傷のために鯉の命はついに救われなかったのであろう。乱暴な旗本の次男の手にかかって、むごたらしく斬り刻まれるよりも、仏の庭で往生したのがせめてもの仕合せであると、彼はあきらめるのほかはなかった。
 しかもここに怪しい噂が起った。かの鯉を生捕ったのは新堀河岸の材木屋の奉公人、佐吉、茂平、与次郎の三人と近所の左官屋七蔵、桶屋の徳助で、文字友から貰った一朱の銀《かね》で酒を買い、さかなを買って、景気よく飲んでしまった。すると、その夜なかから五人が苦しみ出して、佐吉と徳助は明くる日の午《ひる》頃に息を引取った。それがあたかも鯉の死んで浮かんだのと同じ時刻であったというので、その噂はたちまち拡がった。二人は鯉に祟られたというのである。なにかの食物《くいもの》にあたったのであろうと物識り顔に説明する者もあったが、世間一般は承知しなかった。かれらは鯉に執り殺されたに相違ないという事に決められた。他の三人は幸いに助かったが、それでも十日ほども起きることが出来なかった。
 その噂に三右衛門も心を痛めた。結局自分が施主《せしゅ》になって、寺内に鯉塚を建立《こんりゅう》すると、この時代の習い、誰が言い出したか知らないが、この塚に参詣すれば諸願成就すると伝えられて、日々の参詣人がおびただしく、塚の前には花や線香がうず高く供えられた。四月廿二日は四十九日に相当するので、寺ではその法会を営んだ。鯉の七々忌などというのは前代未聞であるらしいが、当日は参詣人が雲集した。和泉屋の奉公人らはみな手伝いに行った。梶田さんも無論に働かされて、鯉の形をした打物《うちもの》の菓子を参詣人にくばった。
 その時以来、和泉屋三右衛門は鯉を食わなくなった。主人ばかりでなく、店の者も鯉を食わなかった。実際あの大きい鯉の傷ついた姿を見せられては、すべての鯉を食う気にはなれなくなったと、梶田さんは少しく顔をしかめて話した。
「そこで、その弥三郎と文字友はどうしました。」と、私たちは訊いた。
「いや、それにも話がある。」と、老人は話しつづけた。
 桃井弥三郎は測らずも一両の金を握って大喜び、これも師匠のお蔭だというので、すぐに二人づれで近所の小料理屋へ行って一杯飲むことになった。文字友は前にもいう通り、女の癖に大酒飲みだから、いい心持に小半日も飲んでいるうちに、酔ったまぎれか、それとも前から思召《おぼしめし》があったのか、ここで二人が妙な関係になってしまった。つまりは鯉が取持つ縁かいなという次第。元来、この弥三郎は道楽者の上に、その後はいよいよ道楽が烈しくなって、結局屋敷を勘当の身の上、文字友の家へころげ込んで長火鉢の前に坐り込むことになったが、二人が毎日飲んでいては師匠の稼ぎだけではやりきれない。そんな男が這入り込んで来たので、いい弟子はだんだん寄付かなくなって、内証は苦しくなるばかり、そうなると、人間は悪くなるよりほかはない。弥三郎は芝居で見る悪侍をそのままに、体《てい》のいい押借やゆすりを働くようになった。
 鯉の一件は嘉永六年の三月三日、その年の六月二十三日には例のペルリの黒船が伊豆の下田へ乗り込んで来るという騒ぎで、世の中は急にそうぞうしくなる。それから攘夷論が沸騰して浪士らが横行する。その攘夷論者には、勿論まじめの人達もあったが、多くの中には攘夷の名をかりて悪事を働く者もある。
 小ッ旗本や安《やす》御家人の次三男にも、そんなのがまじっていた。弥三郎もその一人で、二、三人の悪仲間と共謀して、黒の覆面に大小という拵え、金のありそうな町人の家へ押込んで、攘夷の軍用金を貸せという。嘘だか本当だか判らないが、忌《いや》といえば抜身を突きつけて脅迫するのだから仕方がない。
 こういう荒稼ぎで、弥三郎は文字友と一緒にうまい酒を飲んでいたが、そういうことは長くつづかない。町方の耳にもはいって、だんだんに自分の身のまわりが危くなって来た。浅草の広小路に武蔵屋という玩具《おもちゃ》屋がある。それが文字友の叔父にあたるので、女から頼んで弥三郎をその二階に隠まってもらうことにした。叔父は大抵のことを知っていながら、どういう料簡か、素直
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング