五色蟹
岡本綺堂
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)懐中《ふところ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きゃっ[#「きゃっ」に傍点]
−−
一
わたしはさきに「山椒の魚」という短い探偵物語を紹介した。すると、読者の一人だというT君から手紙をよこして、自分もかつて旅行中にそれにやや似た事件に遭遇した経験をもっているから、何かの御参考までにその事実をありのままに御報告するといって、原稿紙約六十枚にわたる長い記事を送ってくれた。
T君の手紙には又こんなことが書き添えてあった。――わたしはまだ一度もあなたにお目にかかったことがありません。したがって何かよい加減のでたらめを書いて来たのではないかという御疑念があるかも知れません。この記事に何のいつわりもないことはわたしが、誓って保証します。わたしは唯あなたに対して、現在の世の中にもこんな奇怪な事実があるということを御報告すればよろしいのです。万一それを発表なさるようでしたら、どうかその場所の名や、関係者の名だけは、然るべき変名をお用いくださるようにお願い申して置きます。
あながち材料に窮しているためでもないが、この不思議な物語をわたしひとりの懐中《ふところ》にあたためて置くのに堪えられなくなって、わたしはその原稿に多少の添削を加えて、すぐに世の読者の前に発表することにした。但しT君の注文にしたがって、関係者の姓名だけは特に書き改めたことをはじめに断わっておく。場所は単に伊豆地方としておいた。伊豆の国には伊東、修善寺、熱海、伊豆山をはじめとして、名高い温泉場がたくさんあるから、そのうちの何処かであろうとよろしく御想像を願いたい。T君の名も仮りに遠泉君として置く。
遠泉君は八月中旬のある夜、伊豆の温泉場の××館に泊まった。彼には二人の連れがあった。いずれも学校を出てまだ間もない青年の会社員で、一人は本多、もう一人は田宮、三人のうちでは田宮が最も若い二十四歳であった。
遠泉君の一行がここに着いたのはまだ明るいうちで、三人は風呂にはいって宿屋の浴衣に着かえると、すぐに近所の海岸へ散歩に出た。大きい浪のくずれて打ち寄せる崖のふちをたどっているうちに、本多が石のあいだで美しい蟹を見つけた。蟹の甲には紅やむらさきや青や浅黄の線が流れていて、それが潮水にぬれて光って、一種の錦のように美しく見えたので、かれらは立ち止まってめずらしそうに眺めた。五色蟹だの、錦蟹だのと勝手な名をつけて、しばらく眺めていた末に、本多はその一匹をつかまえて自分のマッチ箱に入れた。蟹は非常に小さいので大きいマッチの箱におとなしくはいってしまった。
「つかまえてどうするんだ。」と、ほかの二人は訊いた。
「なに、宿へ持って帰って、これはなんという蟹だか訊いて見るんだ。」
マッチ箱をハンカチーフにつつんで、本多は自分のふところに押し込んで、それから五、六町ばかり散歩して帰った。宿へ帰って、本多はそのマッチ箱をチャブ台の下に置いたままで、やがて女中が運び出して来た夕飯の膳にむかった。そのうちに海の空ももう暮れ切って、涼しい風がそよそよと流れ込んで来た。三人は少しばかり飲んだビールの酔いが出て、みな仰向けに行儀わるくごろごろと寝転んでしまった。汽車の疲れと、ビールの酔いとで、半分は夢のようにうとうとしていると、となりの座敷で俄かにきゃっきゃっと叫ぶ声がするので、三人はうたた寝の夢から驚いて起きた。
となり座敷には四人連れの若い女が泊まりあわせていた。みな十九か二十歳《はたち》ぐらいで東京の女学生らしいと、こちらの三人も昼間からその噂をしていたのであった。遠泉君の註によると、この宿は土地でも第一流の旅館でない。どこもことごとく満員であるというので、よんどころなしに第二流の宿にはいって、しかも薄暗い下座敷へ押し込まれたのであるが、その代りに隣り座敷には若い女の群れが泊まりあわせている。これで幾らか差引きが付いたと、本多は用もないのに時々縁側に出て、障子をあけ放した隣り座敷を覗いていたこともあった。
その隣り座敷で俄かに騒ぎ始めたので、三人はそっと縁側へ出て窺うと、湯あがりの若い女達もやはり行儀をくずして何か夢中になってしゃべっていたらしい。その一人の白い脛《はぎ》へ蟹が突然に這いあがったので、みな飛び起きて騒ぎ出したのであった。もしやと思って、こっちのチャブ台の下をあらためると、本多のマッチの箱は空《から》になっていた。彼はその箱をハンカチーフと一緒に押し込んで置いて、ついそのままに忘れていると、蟹は箱の中からどうしてか抜け出して、おそらく縁伝いに隣りへ這い込んだのであろう。そう判ってみると、本多はひどく恐縮して、もう一つにはそれを機会に隣りの女達と心安くなろうという目的もまじっていたらしく、彼はすぐに隣り座敷へ顔を出して、正直にその事情をうち明けて、自分たちの不注意を謝まった。その事情が判って、女達もみな笑い出した。
それが縁になって、臆面のない本多はとなりの女連れの身許や姓名などをだんだんに聞き出した。かれらは古屋為子、鮎沢元子、臼井柳子、児島亀江という東京の某女学校の生徒で、暑中休暇を利用してこの温泉場に来て、四人が六畳と四畳半の二間を借りて殆んど自炊同様の生活をしているのであった。
「あなた方は当分御滞在でございますか。」と、その中で年長《としかさ》らしい為子が訊いた。
「さあ。まだどうなるか判りません。」と、本多は答えた。「しかし今頃はどこへ行っても混雑するでしょうから、まあ、ここに落ち着いていようかとも思っています。われわれはどの道、一週間ぐらいしか遊んでいることは出来ないんですから。」
「さようでございますか。」と、為子はほかの三人と顔を見あわせながら言った。「わたくし共も二週間ほど前からここへ来ているのでございますが、御覧の通り、この座敷はなんだか不用心でして、夜なんかは怖いようでございます。」
いくら第二流の温泉宿で、座敷代と米代と炭代と電燈代と夜具代だけを支払って、一種の自炊生活をしている女学生らに対して、この真夏にいい座敷を貸してくれる筈はなかった。かれらの占領している二間は下座敷のどん詰まりで、横手の空地《あきち》には型ばかりの粗い竹垣を低く結いまわして、その裾には芒《すすき》や葉鶏頭が少しばかり伸びていた。かれらが忌《いや》がっているのは、その竹垣の外に細い路があって、それが斜《はす》にうねって登って、本街道の往還へ出る坂路につながっていることであった。もし何者かがその坂路を降りて来て、さらに細い路を斜めにたどって来ると、あたかもかの竹垣の外へゆき着いて、さらに又ひと跨ぎすれば安々とこの座敷に入り込むことが出来る。田舎のことであるから大丈夫とは思うものの、不用心といえばたしかに不用心であった。ことに若い女ばかりが滞在しているのであるから、昼間はともかく夜がふけては少し気味が悪いかも知れないと思いやられた。
その隣りへ、こっちの三人が今夜泊まりあわせたので、かれらは余ほど気丈夫になったらしく見えた。そうなると、こちらもなんだか気の毒にもなったのと、相手が若い女達であるのとで、むしろここで一週間を送ろうということになった。
「それがいい。どこへ行っても同じことだよ。」と、本多は真っ先にそれを主張した。
あくる朝、三人が海岸へ出ると、となりの四人連れもやはりそこらをあるいていて、一緒になって崖の上の或る社《やしろ》に参詣した。四人の女のうちでは、児島亀江というのが一番つつましやかで、顔容《かおかたち》もすぐれていた。三人の男とならんでゆく間も、彼女は殆んど一度も口を利かないのを、遠泉君たちはなんだか物足らないように思った。こっちの三人の中では、田宮が一番おとなしかった。
昼のうちは別に何事もなかった。ただ午後になって、本多が果物をたくさんに注文して、遠慮している隣りの四人を無理に自分の座敷へよび込んで、その果物をかれらに馳走して、何かつまらない冗談話などをしたに過ぎなかった。日が暮れてから男の三人は再び散歩に出たが、女達はもう出て来なかった。
「田宮君、君はけしからんよ。」と、本多は途中でだしぬけに言い出した。「君はあの児島亀江という女と何か黙契《もっけい》があるらしいぞ。」
「児島というのはあの中で一番の美人だろう。」と、遠泉君は言った。「あれが田宮君と何か怪しい形跡があるのか。ゆうべの今日じゃあ、あんまり早いじゃないか。」
「馬鹿を言いたまえ。」
田宮はただ苦笑をしていたが、やがて又小声で言い出した。
「どうもあの女はおかしい。僕には判らないことがある。」
「何が判らない。」と、本多は潮の光りで彼の白い横顔をのぞきながら訊いた。
「何がって……。どうも判らない。」
田宮はくり返して言った。
二
日が暮れてまだ間もないので、方々の旅館の客が涼みに出て来て、海岸もひとしきり賑わっていた。その混雑の中をぬけて、三人がけさ参詣した古社の前に登りついた時、田宮はあとさきを見かえりながら話し出した。
「僕はいったい臆病な人間だが、ゆうべは実におそろしかったよ。君たちにはまだ話さなかったが、僕はゆうべの夜半《よなか》、かれこれもう二時ごろだったろう。なんだか忌《いや》な夢を見て、眼が醒めると汗をびっしょりかいている。あんまり心持が悪いからひと風呂はいって来ようと思って、そっと蚊帳を這い出して風呂場へ行った。君たちも知っている通り、ここらは温泉の量が豊富だとみえて、風呂場はなかなか大きい。入口の戸をあけてはいると、中には湯気がもやもやと籠っていて、電燈のひかりも陰っている。なにしろ午前二時という頃だから、おそらく誰もはいっている気遣いはないと思って、僕は浴衣をぬいで湯風呂の前へすたすたと歩いて行くと、大きい風呂のまん中に真っ白な女の首がぼんやりと浮いてみえた。今頃はいっている人があるのかと思いながらよく見定めると、それは児島亀江の顔に相違ないので、僕も少し躊躇したが、もう素っぱだかになってしまったもんだから、御免なさいと挨拶しながら遠慮なしに熱い湯の中へずっとはいると、どういうものか僕は急にぞっと寒くなった。と思うと、今まで湯の中に浮いていた女の首が俄かに見えなくなってしまった。ねえ、僕でなくっても驚くだろう。僕は思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と声をあげそうになったのをやっとこらえて、すぐに湯から飛び出して、碌々にぬれた身体も拭かずに逃げて来たんだが、どう考えてもそれが判らない。けさになって見ると、児島亀江という女は平気であさ飯を食っている。いや、僕の見違いでない、たしかにあの女だ。たといあの女でないとしても、とにかく人間の首が湯の中にふわふわと浮いていて、それが忽ちに消えてしまうという理屈がない。いくら考えても、僕にはその理屈が判らないんだ。」
「君は馬鹿だね。」と、本多は笑い出した。「君は何か忌な夢を見たというじゃあないか。その怖いこわいという料簡があるもんだから、湯気のなかに何か変なものが見えたのさ。海のなかの霧が海坊主に見えるのと同じ理屈だよ。さもなければ、君があの女のことばかりを考えつめていたもんだから、その顔が不意と見えたのさ。もしそれを疑うならば、直接にあの女に訊いてみればいい。ゆうべの夜なかに風呂へ行っていたかどうだか、訊いて見ればすぐ判ることじゃないか。」
「いや。訊くまでもない。実際、風呂にはいっていたならば、突然に消えてしまう筈がないじゃないか。」と、遠泉君は傍から啄《くち》を出した。「結局は夢まぼろしという訳だね。おい、田宮君。まだそれでも不得心ならば今夜も試しに行って見たまえ。」
「いや、もう御免だ。」
田宮が身をすくめているらしいのは、暗いなかでも想像されたので、二人は声をあげて笑った。暗い石段を降りて、もとの海岸づたいに宿へ帰ると、となりの座敷では女たちの話し声がきこえた。
「おい、田宮君。ゆうべのことを訊いてやろうか。」と、本多はささやいた。
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング