「よしてくれたまえ。いけない、いけない。」と、田宮は一生懸命に制していた。
表二階はどの座敷も満員で、夜のふけるまで笑い声が賑かにきこえていたが、下座敷のどん詰まりにあるこの二組の座敷には、わざわざたずねて来る人のほかには誰も近寄らなかった。廊下をかよう女中の草履の音も響かなかった。かの竹垣の裾からは虫の声が涼しく湧き出して、音もなしに軽くなびいている芒の葉に夜の露がしっとりと降りているらしいのが、座敷を洩れる電燈のひかりに白くかがやいて見えた。三人は寝転んでしゃべっていたが、その話のちょっと途切れた時に、田宮は吸いかけの巻きたばこを煙草盆の灰に突き刺しながら、俄かに半身を起こした。
「あ、あれを見たまえ。」
二人はその指さす方角に眼をやると、縁側の上に、一匹の小さな蟹が這っていた。それは、ゆうべの蟹とおなじように、五色にひかった美しい甲を持っていた。田宮は物にうなされたように、浴衣の襟をかきあわせながら起き直った。
「どうしてあの蟹がまた出たろう。」
「ゆうべの蟹は一体どうしたろう。」と、遠泉君は言った。
「なんでも隣りの連中が庭へ捨ててしまったらしい。」と、本多は深く気に留めないように言った。
「それがそこらにうろ付いて、夜になって又這い込んで来たんだろう。」
「あれ、見たまえ。又となりの方へ這って行く。」と、田宮は団扇《うちわ》でまた指さした。
「はは、蟹もこっちへは来ないで隣へ行く。」と、本多は笑った。「やっぱり女のいるところの方がいいと見えるね。」
遠泉君も一緒になって笑ったが、田宮はあくまでも真面目であった。彼は眼を据えて蟹のゆくえを見つめているうちに、美しい甲の持ち主はもう隣り座敷の方へ行き過ぎてしまった。きっとまた女たちが騒ぎ出すだろうと、こっちでは耳を引き立てて窺っていたが、隣りではなんにも気がつかないらしく、やはり何かべちゃべちゃと話しつづけていた。
「御用心、御用心。」と、本多はとなりへ声をかけた。「蟹がまた這い込みましたよ。」
となりでは急に話し声をやめて、そこらを探し廻っていたらしいが、やがて一度にどっと笑い出した。かれらは蟹を発見し得ないので、本多にかつがれたのだと思っていたらしかった。本多は起きて縁側に出て行った。そうして、たしかに蟹がはいり込んだことを説明したので、四人の女たちはまた起ちあがって座敷の隅々を詮索すると、蟹は果たして発見された。かれは床の間の上に這いあがって、女学生の化粧道具を入れた小さいオペラバックの上にうずくまっていた。そのバックは児島亀江のものであった。蟹は本多の手につかまって、低い垣の外へ投り出された。
蟹の始末もまず片付いて、男三人は十時ごろに蚊帳にはいった。となり座敷もほとんど同時に寝鎮まった。宵のうちは涼しかったが、夜のふけるに連れてだんだんに蒸し暑くなって来たので、遠泉君はひと寝入りしたかと思うと眼がさめた。襟ににじむ汗を拭いて蒲団の上に腹這いながら煙草を吸っていると、となりに寝ていた本多も眼をあいた。
「いやに暑い晩だね。」と、彼は蚊帳越しに天井を仰ぎながら言った。「もう何時だろう。」
枕もとの懐中時計を見ると、今夜ももう午前二時に近かった。いよいよ蒸して来たので、遠泉君は手をのばして団扇を取ろうとする時に、となり座敷の障子がしずかにあいて、二人の女がそっと廊下へ出てゆくらしかった。遠泉君も本多も田宮の話をふと思い出して、たがいに顔を見あわせた。
「風呂へ行くんじゃあないかしら。」と、本多は小声で言った。
「そうかも知れない。」
「丁度ゆうべの時刻だぜ。田宮が湯のなかで女の首を見たというのは……。」
「して見ると、となりの連中は混みあうのを嫌って、毎晩夜なかに風呂へ行くんだ。」と、遠泉君は言った。「田宮はゆうべも丁度そこへ行き合わせたんだ。湯のなかに女の首なんぞが浮き出して堪まるものか。」
「田宮を起こして、今夜も嚇かしてやろうじゃないか。」
「よせ、よせ。可哀そうによく寝ているようだ。」
二人は団扇をつかいながら煙草をまた一本吸った。一つ蚊帳のなかに寝ている田宮が急にうなり出した。
「おい、どうした。何を魘《うな》されているんだ。」
言いながら本多は彼の苦しそうな寝顔をのぞくと、田宮は暑いので掻巻《かいま》きを跳ねのけていた。仰向けに寝て行儀悪くはだけている浴衣の胸の上に小さい何物かを発見したときに、本多は思わず声をあげた。
「あ、蟹だ。さっきの蟹が田宮の胸に乗っている。」
これと殆んど同時に、風呂場の方角でけたたましい女の叫び声が起こった。家内が寝鎮まっているだけに、その声があたりにひびき渡って、二人の耳を貫くようにきこえた。
「風呂場のようだね。」
風呂場には隣りの女ふたりがはいっていることを知っているので、一種の不安を感じた遠泉君はすぐに飛び起きて蚊帳を出た。本多もつづいて出た。二人はまず風呂場の方へ駈けてゆくと、一人の女が風呂のあがり場に倒れていた。風呂の中にはなんにも見えなかった。ともかくも水を飲ませてその女を介抱しているうちに、その声を聞きつけて宿の男や女もここへ駈け付けて来た。
女は表二階に滞在している某官吏の細君であった。この人も混雑を嫌って、正午ごろに一度、夜なかに一度、他の浴客の少ない時刻を見はからって入浴するのを例としていた。今夜はいつもよりも少しおくれて丁度二時を聞いたころに風呂場へ来ると、湯のなかに二人の若い女の首が浮いていた。自分と同じように夜ふけに入浴している人達だと思って、別に怪しみもしないで彼女も浴衣をぬいだ。そうして、湯風呂の前に進み寄った一刹那に、二つの首は突然消えてしまったので、彼女は気を失う程におどろいて倒れた。
ゆうべの田宮の話が思い出されて、遠泉君はなんだか忌な心持になった。しかし本多はそれが迷信でも化け物でもない、自分のとなり座敷の女ふたりが確かに入浴していたに相違ないと言った。それにしても人間ふたりが突然に消え失せる筈はないので、風呂番や宿の男どもが大きい湯風呂のなかへ飛び込んで隅々を探してみると、若い女ふたりが湯の底に沈んでいるのを発見した。女ふたりは確かに入浴していて、あたかもかの細君がはいって来た途端に、どうかしたはずみで湯の底に沈んだらしい。二つの首が突然に消え失せたように見えたのは、それがためであった。すぐに医師を呼んでいろいろと手当てを加えた結果、ひとりの女は幸いに息を吹き返したが、ひとりはどうしても生きなかった。
生きた女は古屋為子であった。死んだ女は児島亀江であった。為子の話によると、ふたりが湯風呂の中にゆっくり浸っていると、なんだか薄ら眠いような心持になった。と思う時に、入口の戸をあけて誰かはいって来たらしいので、湯気の中から顔をあげてその人を窺おうとする一刹那、自分と列んでいる亀江が突然に湯の底へ沈んでしまった。あっ[#「あっ」に傍点]と思うと、自分も何物にか曳かれたように、同じくずるずると沈んで行った。それから後は勿論なんにも知らないというのであった。
三
亀江の検死は済んで、死体は連れの三人に引き渡された。三人はすぐに東京へ電報を打って、その実家から引取り人の来るのを待っていた。為子は幸いに生き返ったものの、あくる日も床を離れないで、医師の治療を受けていた。遠泉君の一行も案外の椿事におどろかされて、となり座敷の女たちのために出来るだけの手伝いをしてやった。田宮は気分が悪いといって、朝飯も碌々に食わなかった。
「あの、まことに恐れ入りますが、どなたかちょっと帳場まで……。」と、女中がこっちの座敷へよびに来た。
遠泉君はすぐに起って、旅館の入口へ出てゆくと、駐在所の巡査がそこに腰をかけて番頭と何か話していた。
「なにか御用ですか。」
「いや、早速ですが、少しあなた方におたずね申したいことがあります。」と、巡査は声を低めた。
「御承知の通り、あなた方の隣り座敷の女学生が湯風呂のなかで変死した事件ですが、どうしてあの女学生が突然に湯の中へ沈んでしまったのか、医者にもその理由が判らないというんです。どうも急病でもないらしい。といって、滑って転ぶというのも少しおかしい。そこで、あなたのお考えはどうでしょうか。あの児島亀江という女学生は、同宿の他の三人と折合いの悪かったような形跡は見えなかったでしょうか。それとも何かほかにお心当たりのことはなかったでしょうか。」
四人のうちでは一番の年長《としかさ》で、容貌《きりょう》もまた一番よくない古屋為子が、最も年若で最も容貌の美しい児島亀江と、一緒に湯風呂のなかに沈んだのは、一種の嫉妬か或いは同性の愛か、そういう点について警察でも疑いを挟んでいるらしかった。しかし遠泉君は実際なんにも知らなかった。
「さあ、それはなんとも御返事が出来ませんね。隣り合っているとはいうものの、なにしろおとといの晩から初めて懇意になったんですから、あの人達の身の上にどんな秘密があるのか、まるで知りません。」
「そうですか。」と、巡査は失望したようにうなずいた。「しかし警察の方では偶然の出来事や過失とは認めていないのです。もしこの後にも何かお心付きのことがありましたら御報告を願います。」
「承知しました。」
巡査に別れて、遠泉君は自分の座敷へ戻ったが、児島亀江の死――それは確かに一種の疑問であった。相手が若い女達であるだけに、それからそれへといろいろの想像が湧いて出た。田宮がその前夜に見たという女の首のことがまた思い出された。
四人連れのひとりは死ぬ、ひとりはどっと寝ているので、あとに残った元子と柳子のふたりは途方に暮れたような蒼い顔をして涙ぐんでいるのも惨《いじ》らしかった。さすがの本多もきょうはおとなしく黙っていた。田宮は半病人のような顔をしてぼんやりしていた。夕方になって、警官がふたたび帳場へ来て、なにか頻りに取り調べているらしかった。警察の側では女学生の死について、何かの秘密をさぐり出そうと努めているのであろう。それを思うにつけても、遠泉君は一種の好奇心も手伝って、なんとかしてその真相を確かめたいと、自分も少しくあせり気味になって来た。
その晩は元子と柳子と遠泉君と本多と、宿の女房と娘とが、亀江の枕もとに坐って通夜をした。田宮は一時間ばかり坐っていたが、気分が悪いといって自分の座敷へ帰ってしまった。元子と柳子とは唖《おし》のように黙って、唯しょんぼりと俯向いているので、遠泉君はかれらの口からなんの手がかりも訊き出すたよりがなかった。こうして淋しい一夜は明けたが、東京からの引取り人はまだ来なかった。
徹夜のために、頭がひどく重くなったので、遠泉君はあさ飯の箸をおくと、ひとりで海岸へ散歩に出て行った。女学生の死はこの狭い土地に知れ渡っているとみえて、往来の人達もその噂をして通った。遠泉君は海岸の石に腰をかけて、沖の方から白馬の鬣毛《たてがみ》のようにもつれて跳って来る浪の光りをながめている[#「ながめている」は底本では「ながている」]うちに、ふと自分の足もとへ眼をやると、かの五色の美しい蟹が岩の間をちょろちょろと這っていた。田宮の胸の上にこの蟹が登っていたことを思い出して、遠泉君はまたいやな心持になった。彼はそこらにある小石を拾って、蟹の甲を眼がけて投げ付けようとすると、その手は何者かに掴まれた。
「あ、およしなさい。祟りがある。」
おどろいて振り返ると、自分のそばには六十ばかりの漁師らしい老人が立っていた。
「あの蟹はなんというんですか。」と、遠泉君は訊いた。
「あばた蟹[#「あばた蟹」に傍点]といいますよ。」
美しい蟹に痘痕《あばた》の名はふさわしくないと遠泉君は思っていると、老いたる漁師はその蟹の由来を説明した。
今から千年ほども昔の話である。ここらに大あばたの非常に醜《みにく》い女があった。あばたの女は若い男に恋して捨てられたので、かれは自分の醜いのをひどく怨んで、来世は美しい女に生まれ代って来るといって、この海岸から身を投げて死んだ。かれは果たして美しく生まれかわったが、人間にはなり得な
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