たものの、あくる日も床を離れないで、医師の治療を受けていた。遠泉君の一行も案外の椿事におどろかされて、となり座敷の女たちのために出来るだけの手伝いをしてやった。田宮は気分が悪いといって、朝飯も碌々に食わなかった。
「あの、まことに恐れ入りますが、どなたかちょっと帳場まで……。」と、女中がこっちの座敷へよびに来た。
遠泉君はすぐに起って、旅館の入口へ出てゆくと、駐在所の巡査がそこに腰をかけて番頭と何か話していた。
「なにか御用ですか。」
「いや、早速ですが、少しあなた方におたずね申したいことがあります。」と、巡査は声を低めた。
「御承知の通り、あなた方の隣り座敷の女学生が湯風呂のなかで変死した事件ですが、どうしてあの女学生が突然に湯の中へ沈んでしまったのか、医者にもその理由が判らないというんです。どうも急病でもないらしい。といって、滑って転ぶというのも少しおかしい。そこで、あなたのお考えはどうでしょうか。あの児島亀江という女学生は、同宿の他の三人と折合いの悪かったような形跡は見えなかったでしょうか。それとも何かほかにお心当たりのことはなかったでしょうか。」
四人のうちでは一番の年長《としかさ》で、容貌《きりょう》もまた一番よくない古屋為子が、最も年若で最も容貌の美しい児島亀江と、一緒に湯風呂のなかに沈んだのは、一種の嫉妬か或いは同性の愛か、そういう点について警察でも疑いを挟んでいるらしかった。しかし遠泉君は実際なんにも知らなかった。
「さあ、それはなんとも御返事が出来ませんね。隣り合っているとはいうものの、なにしろおとといの晩から初めて懇意になったんですから、あの人達の身の上にどんな秘密があるのか、まるで知りません。」
「そうですか。」と、巡査は失望したようにうなずいた。「しかし警察の方では偶然の出来事や過失とは認めていないのです。もしこの後にも何かお心付きのことがありましたら御報告を願います。」
「承知しました。」
巡査に別れて、遠泉君は自分の座敷へ戻ったが、児島亀江の死――それは確かに一種の疑問であった。相手が若い女達であるだけに、それからそれへといろいろの想像が湧いて出た。田宮がその前夜に見たという女の首のことがまた思い出された。
四人連れのひとりは死ぬ、ひとりはどっと寝ているので、あとに残った元子と柳子のふたりは途方に暮れたような蒼い顔をして涙ぐんでいるのも惨《いじ》らしかった。さすがの本多もきょうはおとなしく黙っていた。田宮は半病人のような顔をしてぼんやりしていた。夕方になって、警官がふたたび帳場へ来て、なにか頻りに取り調べているらしかった。警察の側では女学生の死について、何かの秘密をさぐり出そうと努めているのであろう。それを思うにつけても、遠泉君は一種の好奇心も手伝って、なんとかしてその真相を確かめたいと、自分も少しくあせり気味になって来た。
その晩は元子と柳子と遠泉君と本多と、宿の女房と娘とが、亀江の枕もとに坐って通夜をした。田宮は一時間ばかり坐っていたが、気分が悪いといって自分の座敷へ帰ってしまった。元子と柳子とは唖《おし》のように黙って、唯しょんぼりと俯向いているので、遠泉君はかれらの口からなんの手がかりも訊き出すたよりがなかった。こうして淋しい一夜は明けたが、東京からの引取り人はまだ来なかった。
徹夜のために、頭がひどく重くなったので、遠泉君はあさ飯の箸をおくと、ひとりで海岸へ散歩に出て行った。女学生の死はこの狭い土地に知れ渡っているとみえて、往来の人達もその噂をして通った。遠泉君は海岸の石に腰をかけて、沖の方から白馬の鬣毛《たてがみ》のようにもつれて跳って来る浪の光りをながめている[#「ながめている」は底本では「ながている」]うちに、ふと自分の足もとへ眼をやると、かの五色の美しい蟹が岩の間をちょろちょろと這っていた。田宮の胸の上にこの蟹が登っていたことを思い出して、遠泉君はまたいやな心持になった。彼はそこらにある小石を拾って、蟹の甲を眼がけて投げ付けようとすると、その手は何者かに掴まれた。
「あ、およしなさい。祟りがある。」
おどろいて振り返ると、自分のそばには六十ばかりの漁師らしい老人が立っていた。
「あの蟹はなんというんですか。」と、遠泉君は訊いた。
「あばた蟹[#「あばた蟹」に傍点]といいますよ。」
美しい蟹に痘痕《あばた》の名はふさわしくないと遠泉君は思っていると、老いたる漁師はその蟹の由来を説明した。
今から千年ほども昔の話である。ここらに大あばたの非常に醜《みにく》い女があった。あばたの女は若い男に恋して捨てられたので、かれは自分の醜いのをひどく怨んで、来世は美しい女に生まれ代って来るといって、この海岸から身を投げて死んだ。かれは果たして美しく生まれかわったが、人間にはなり得な
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