いで蟹となった。あばた蟹の名はそれから起こったのである。そうして、この蟹に手を触れたものには祟りがあると言い伝えられて、いたずらの子供ですらも捕えるのを恐れていた。殊に嫁入り前の若い女がこの蟹を見ると、一生縁遠いか、あるいはその恋に破れるか、必ず何かの禍いをうけると恐れられていた。
明治以後になって、この奇怪な伝説もだんだんに消えていった。あばた蟹を恐れるものも少なくなった。ところが、十年ほど前に東京の某銀行家の令嬢がこの温泉に滞在しているうちに、ある日ふとこの蟹を海岸で見付けて、あまり綺麗だというので、その一匹をつかまえて、なんの気もなしに自分の宿へ持って帰った。宿の女中も明治生まれの人間であるので、その伝説を知りながら黙っていると、その明くる晩、令嬢は湯風呂のなかに沈んでしまった。その以来、あばた蟹の伝説がふたたび諸人の記憶によみがえったが、それでも多数の人はやはりそれを否認して、令嬢の変死とあばた蟹とを結び付けて考えようとはしなかった。
「そんなことを言うと、土地の繁昌にけち[#「けち」に傍点]を付けるようでいけねえが、その後にもそれに似寄ったことが二度ばかりありましたよ。」と、彼は付け加えた。
八月のあさ日に夏帽の庇《ひさし》を照らされながら、遠泉君は薄ら寒いような心持でその話を聴いていた。
漁師に別れて宿へ帰る途中で、遠泉君は考えた。おとといその蟹をつかまえたのは本多である。しかも現在のところでは、本多にはなんの祟りもないらしく、蟹はかえって隣り座敷へ移って行った。一旦投げ捨てたのが又這いあがって来て、かの児島亀江のオペラバックの上に登った。彼女はこの時にもう呪われたのであろう。彼女が湯風呂の底に沈んだのは、為子の嫉妬でもなく、同性の愛でもなく、あばた蟹の祟りであるかも知れない。それにしても、四人の女の中でなぜ彼女が特に呪われたか、彼女が最も美しい顔を持っていた為であろうか。それともまだ他に子細があるのであろうか。
遠泉君は更に彼女と田宮との関係を考えなければならなかった。おとといの晩、田宮が風呂場で見たという女の首はなんであろうか、それが果たして亀江であったろうか。ゆうべも本多が垣の外へ投げ出した蟹が、ふたたび這い戻って来て田宮の胸にのぼると、彼は非常に魘された。かの蟹と田宮と亀江と、この三者の間にどういう糸が繋がれているのであろうか。遠泉君は田宮を詮議してその秘密の鍵を握ろうと決心した。
宿の前まで来ると、かれは再びきのうの巡査に逢った。
「やっぱりなんにもお心付きはありませんか。」と、巡査は訊いた。
「どうもありません。」と、遠泉君は冷やかに答えた。
「古屋為子がもう少しこころよくなったら、警察へ召喚して取り調べようと思っています。」と、巡査はまた言った。
警察はあくまでも為子を疑って、いろいろに探偵しているらしく、東京へも電報で照会して、かの女学生たちの身許や素行の調査を依頼したとのことであった。遠泉君は漁師から聞いたあばた蟹の話をすると、巡査はただ笑っていた。
「ははあ、わたしは近ごろ転任して来たので、一向に知りませんがねえ。」
「御参考までに申し上げて置くのです。」
「いや、判りました。」
巡査はやはり笑いながらうなずいていた。彼が全然それを問題にしていないのは、幾分の嘲笑を帯びた眼の色でも想像されるので、遠泉君は早々に別れて帰った。
午後になって、東京から亀江の親戚がその屍体を引き取りに来た。屍体はすぐに火葬に付して、遺髪と遺骨とを持って帰るとのことであった。その翌日、元子は遺骨を送って東京へ帰った。柳子はあとに残って為子の看護をすることになった。柳子は警察へ一度よばれて、何かの取り調べをうけた。警察ではあくまでも犯罪者を探り出そうとしているのを、遠泉君は無用の努力であるらしく考えた。
田宮はその以来ひどく元気をうしなって、半病人のようにぼんやりしているのが、連れの者に取っては甚だ不安の種であった。為子はだんだんに回復して、遠泉君らが出発する前日に、とうとう警察へ召喚されたが、そのまま無事に戻された。出発の朝、三人は海岸へ散歩に出ると、かのあばた蟹は一匹も形を見せなかった。
東京へ帰ってからも、田宮はひと月以上もぼんやりしていた。彼は病気の届けを出して、自分の会社へも出勤しなかったが、九月の末になって世間に秋風が立った頃に、久し振りで遠泉君のところへ訪ねて来た。この頃ようよう気力を回復して二、三日前から会社へ出勤するようになったと言った。
「君はあの児島亀江という女学生と何か関係があったのか。」と、遠泉君は訊いた。
「実はかつて一度、帝劇の廊下で見かけたことがある。それが偶然に伊豆でめぐり逢ったんだ。」
「そこで、君はあの女をなんとか思っていたのか。」
田宮は黙って溜め息をついて
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