虎
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)寅《とら》年
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)品川区|鮫洲《さめず》の
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
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上
「去年は牛のお話をうかがいましたが、ことしの暮は虎のお話をうかがいに出ました。」と、青年は言う。
「そう、そう。去年の暮には牛の話をしたことがある。」と、老人はうなずく。「一年は早いものだ。そこで今年の暮は虎の話……。なるほど来年は寅《とら》年というわけで、相変らず干支《えと》にちなんだ話を聴かせろというのか。いつも言うようだが、若い人は案外に古いね。しかしまあ折角だから、その干支にちなんだところを何か話す事にしようか。」
「どうぞ願います。この前の牛のように、なるべく江戸時代の話を……。」
「そうなると、ちっとむずかしい。」と、老人は顔をしかめる。「これが明治時代ならば、浅草の花屋敷にも虎はいる。だが、江戸時代となると、虎の姿はどこにも見付からない。有名な岸駒《がんく》の虎だって画で見るばかりだ。芝居には国姓爺《こくせんや》の虎狩もあるが、これも縫いぐるみをかぶった人間で、ほん物の虎とは縁が遠い。そんなわけだから、世界を江戸に取って虎の話をしろというのは、俗にいう『無いもの喰おう』のたぐいで、まことに無理な注文だ。」
「しかしあなたは物識りですから、何かめずらしいお話がありそうなもんですね。」
「おだてちゃあいけない。いくら物識りでも種のない手妻《てづま》は使えない。だが、こうなると知らないというのも残念だ。若い人のおだてに乗って、まずこんな話でもするかな。」
「ぜひ聴かせてください。」と、青年は手帳を出し始める。
「どうも気が早いな。では、早速に本文《ほんもん》に取りかかる事にしよう。」と、老人も話し始める。
「これは嘉永四年の話だと思ってもらいたい。君たちも知っているだろうが、江戸時代には観世物がひどく流行《はや》った。東西の両国、浅草の奥山をはじめとして、神社仏閣の境内や、祭礼、縁日の場所には、必ず何かの観世物が出る。もちろん今日《こんにち》の言葉でいえばインチキの代物《しろもの》が多い
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