のだが、だまされると知りつつ覗きに行く者がある。その仲間に友蔵、幸吉という兄弟があった。二人はいつも組合って、両国の広小路、すなわち西両国に観世物小屋を出していた。
 両国と奥山は定打《じょううち》で、ほとんど一年じゅう休みなしに興行を続けているのだから、いつも、同じ物を観せてはいられない。観客を倦きさせないように、時々には観世物の種を変えなければならない。この前に蛇使いを見せたらば、今度は※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]娘をみせる。この前に一本足をみせたらば、今度は一つ目小僧を見せるというように、それからそれへと変った物を出さなければならない。そうなると、いくらインチキにしても種が尽きて来る。その出し物の選択には、彼らもなかなか頭を痛めるのだ。殊に両国は西と東に分れていて、双方に同じような観世物や、軽業《かるわざ》、浄瑠璃、芝居、講釈のたぐいが小屋を列べているのだから、おたがいに競争が激しい。
 今日の浅草公園へ行ってみても判ることだが、同じような映画館がたくさんに列んでいても、そのなかに入りと不入りがある。両国の観世物小屋にもやはり入りと不入りはまぬかれないので、何か新しい種をさがし出そうと考えている。そこで、かの友蔵と幸吉も絶えず新しいものに眼をつけていると、嘉永四年四月十一日の朝、荏原郡大井村、すなわち今の品川区|鮫洲《さめず》の海岸に一匹の鯨が流れ着いた。」
「大きい鯨ですか。」
「今度のは児鯨で余り大きくない。五十二年前の寛政十年五月|朔日《ついたち》に、やはり品川沖に大きい鯨があらわれた。これは生きて泳いでいたのを、土地の漁師らが大騒ぎをして捕えたということだが、その長さは九|間《けん》一尺もあったそうだ。今度は鯨は死んでいて、長さは三間余りであったというから、寛政の鯨よりも遙かに小さい。それでも鮫洲で捕れた鯨といえば、観世物にはお誂え向きだから、耳の早い興行師仲間はすぐに駈けつけた。友蔵と幸吉も飛んで行った。
 鮫洲の漁師たちも総がかりで、死んだ鯨を岸寄りの浅いところへ引揚げたものの、これまで鯨などを扱ったことがないから、どう処分していいか判らない。ともかくも御代官所へ届けるなぞと騒いでいる。それを聞き伝えて見物人が大勢あつまって来る。友蔵兄弟が駈けつけた頃には、ほかに四、五人の仲間が来ていた。代官所の検分が済めば、鯨は浜の者の所得になるの
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