当然であった。果してその後の彼はメキメキと昇進した。まだ二十代の青年俳優が団十郎、菊五郎、左団次らの諸名優を相手にして、事実上の立おやまに成り済ましたのである。
 その当時、他にも相当の女形がないではなかったが、源之助の人気は群を抜いていた。いわゆる伝法肌で気品のある役には不適当であるといわれたが、それでもあらゆる役々を引受けて、団菊左と同じ舞台に立っていた。その黄金時代は明治二十三年であった。
 二十三年の七月、市村座――その頃はまだ猿若町にあった――で黙阿弥作の『嶋鵆月白浪《しまちどりつきのしらなみ》』を上演した。新富座の初演以来、二回目の上演である。菊五郎の嶋蔵、左団次の千太は初演の通りで、団十郎欠勤のために、望月輝《もちづきあきら》の役は菊五郎が兼ねていた。ただひとり初演と違っているのは源之助の「弁天おてる」であった。この狂言の初演は明治十四年で、その当時は半四郎の「弁天おてる」に対して、源之助はその女中のおせいという役を勤めていたのであるが、今度は自分がおてるを勤めることになった。しかも世間がそれを怪《あやし》まないほどに、彼の技倆も名声も高まっていたのである。
 その年の十
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