一月、歌舞伎座で『河内山』を上演した。これも再演で、団十郎の河内山、菊五郎の直次郎、左団次の市之丞、すべて初演同様の顔触れである中で、源之助は三千歳《みちとせ》を勤めた。これも初演は半四郎の役であった。こういうわけで、半四郎歿後の半四郎は自然に源之助と決められてしまった。沢村源之助は東京の劇壇に欠くべからざる女形となった。人気の隆々たるこというまでもない。
 その東京をあとに見て、彼は翌二十四年の七月を限りに歌舞伎の舞台から姿をかくした。彼は大阪へ走るべく余儀なくされたのである。その当時の俳優組合規約によれば、大歌舞伎の俳優は小芝居へ出勤することを許されないにもかかわらず、彼は神田の三崎座の舞台開きに出勤したので、東京に身を置き兼ねる破目《はめ》に陥《おちい》ったのである。彼が小芝居に出勤を敢てしたのは、ある芝居師に欺かれたためであるというが、所詮は借金のためであった。人気盛りの若い俳優の不検束な生活が、彼を借金の淵へ追い沈めたらしい。それを名残《なご》りに源之助の黄金時代は去った。
 一方からいえば、源之助は不運でもあった。大歌舞伎俳優の小芝居出勤問題は、その後にも種々の事件を惹起し
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