權三と助十
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)駕籠《かご》かき
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)駕籠|舁《かき》など
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(例)[#ここから2字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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登場人物
駕籠《かご》かき 權三《ごんざ》
權三の女房 おかん
駕籠かき 助十《すけじふ》
助十の弟 助八
家主 六郎兵衞
小間物屋 彦兵衞
彦兵衞のせがれ 彦三郎
左官屋 勘太郎
猿まはし 與助
願人坊主《ぐわんにんばうず》 雲哲《うんてつ》
おなじく 願哲
石子伴作《いしこばんさく》
ほかに長屋の男 女 娘 子供 捕方《とりかた》
駕籠|舁《かき》など
第一幕
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享保《きやうほ》時代。大岡|越前守《ゑちぜんのかみ》が江戸の町奉行《まちぶぎやう》たりし頃。七月初旬の午後。
神田橋本町の裏長屋。壁一重を境にして、上《かみ》のかたには駕籠かき權三、下《しも》の方は駕籠かき助十が住んでゐる。いづれも破れ障子のあばら屋にて、權三の家の臺所は奧にあり。助十の家《うち》の臺所は下のかたにある。權三の家の土間には一|挺《ちやう》の辻駕籠が置いてある。二軒の下のかたに柳が一本立つてゐて、その奧に路地の入口があると知るべし。
(けふは長屋の井戸がへにて、相長屋の願人坊主、雲哲、願哲の二人も手傳ひに出てゐる體《てい》にて、いづれも權三の家の縁に腰をかけて汗をふいてゐる。助十の弟助八は廿歳《はたち》前後のわか者、刺青《ほりもの》のある男にて片肌をぬぎ、鉢卷、尻からげの跣足《はだし》にて澁團扇《しぶうちは》を持つて立つてゐる。權三の女房おかん、河岸《かし》の女郎あがりにて廿六七歳、これも手拭にて頭をつゝみ、襷《たすき》がけにて浴衣《ゆかた》の褄《つま》をからげ、三人に茶を出してゐる。少しく離れて、猿まはし與助は手拭を頸にまき、浴衣の上に猿を背負ひ、おなじく尻からげの跣足にてぼんやりと立つてゐる。表には角兵衞獅子の太鼓の音きこゆ。)
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雲哲 やれ、やれ、暑いことだぞ。
願哲 まさか笠をかぶつて井戸がへにも出られず、この素頭《すあたま》をじり[#「じり」に傍点]/\と照りつけられては、眼がくらみさうになる。
雲哲 まつたく今日の井戸がへは焦熱《せうねつ》地獄だ。
おかん お前さん達もあたしのやうに手拭でつつんでゐれば好いぢやありませんか。
願哲 かういふ時には女は格別、男は鉢卷でないと何《ど》うも威勢がよくないからな。
助八 はゝ、笑はせるぜ。鉢卷をしたつて、すつとこ[#「すつとこ」に傍点]被《かぶ》りをしたつて、願人坊主の相場がどう上るものか。
おかん 與助さん。おまへさんもお飮みでないかえ。(茶碗を出す。)
與助 (進みよりて丁寧に會釋する。)はい、はい。いや、これはありがたい。實はさつきから喉《のど》が渇《かわ》いてひり[#「ひり」に傍点]/\してゐました。
助八 いくらおめえの商賣でも、長屋の井戸がへにえて[#「えて」に傍点]公を背負《しよ》つて出ることもあるめえぢやあねえか。
與助 それがね。(猿をみかへる。)なにしろ這奴《こいつ》がよく馴染《なじ》んでゐるのでね。ちつとの間でもわたしの傍を離れないのですよ。
おかん 畜生でも可愛いもんだねえ。
與助 可愛いもんですよ。
助八 ぢやあ、おれも可愛がつて遣《や》らうか。(猿のあたまを撫でる。)やい、えて公。手前も一緒に出て來ながら、親方の背中で高見の見物をきめてゐる奴があるものか。人並はづれて長え手を持つてゐるんぢやあねえか。みんなと一緒に綱をひいて、威勢好くエンヤラサアと遣つてくれ。おい、判つたか、判つたか。(猿の耳を引張れば、猿は引つかく。)え、え、痛《い》てえ、痛てえ。こん畜生、だしぬけに引つ掻きやあがつたな。
おかん おまへさんが惡戲《いたづら》をするから惡いんだよ。
與助 こいつは何うも氣が暴《あら》くつていけません。八さん。まあ堪忍して遣つてください。
助八 痛てえ、痛てえ。(手の甲を撫でながら。)氣が暴《あ》れえにも何にも、まつたく其奴は旅の山猿だ。江戸前の猿ぢやあねえ。
おかん 猿に江戸前も旅もあるものかね。うなぎと間違へてゐるんだよ。(笑ふ。)
雲哲 山の芋が鰻になつても、山猿がうなぎになつたと云ふ話は聞かないな。
願哲 はゝ、こいつは大笑ひだ。
助八 おい、與助。その山猿をおれに貸してくれ。
與助 え、どうするのだね。
助八 おれ一人が引つかゝれた上に、みんなのお笑ひ草になつちやあ割に合はねえ、そいつをこゝへ追つ放して、片っ端から引つ掻かして遣るのだ。
おかん (おどろく。)あれ、馬鹿なことをお云ひでないよ。呆《あき》れた人だねえ。
雲哲 惡巫山戲《わるふざけ》はいけない、いけない。(起ちあがる。)
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(助八は猿を取らうとする。與助は遣るまいとする。この爭ひのあひだに助八は又引つかゝれる。)
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助八 あ、こん畜生め、又遣りやあがつたな。もういよ/\料簡《れうけん》がならねえ。うぬ、生膽《いきぎも》を取った上で、兩國《りやうごく》のもゝんじい[#「もゝんじい」に傍点]屋へ賣飛ばすからさう思へ。
與助 えゝ、人の商賣物をどうするのだ。
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(助八と與助は爭つてゐるところへ、上のかたより助八の兄助十、三十歳前後、これも鉢卷、刺青のある肌ぬぎ、尻端折《しりはしよ》りの跣足にて出づ。)
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助十 やい、やい。なにを騷いでゐるのだ。煙草休みも好い加減にしろ。いつまでもこんな泥仕事をしちやあゐられねえ。日の暮れねえうちに早く濟して仕舞はなけりやあならねえのだ。みんなも精出して遣つてくれ。大屋さんに叱られるぞ。
與助 大屋さんに叱られては大變だ。さあ、行きませう。
雲哲 さうだ、さうだ。
願哲 やれ、やれ、又一と汗かくかな、
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(與助と雲哲、願哲は上のかたに去る。)
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助十 (おかんに。)おい、かみさん。おめえの宿六《やどろく》はどうしたね。
おかん 奧に寢てゐますよ。
助十 冗談ぢやあねえ。一年に一度の井戸がへだから、長屋中の者がみんな商賣を休んで、かうして泥だらけになつて働いてゐるんぢやねえか。その最中に自分ひとり悠々《いう/\》緩々《くわん/\》と寢そべつてゐる奴があるものか。あんまりお長屋の義理を知らねえ狸野郎の横着野郎《わうちやくやろう》だ。ぬす人のひる寢も好加減にしろと云って、早く引摺《ひきず》り起して來い。
おかん (むつとして。)何もそんなに呶鳴《どな》り散らさなくつてもいゝぢやありませんか。亭主の代りにわたしが出てゐりやあお長屋の義理は濟んでゐますよ。
助十 えゝ、おめえのやうな曳摺《ひきず》り嚊《かゝあ》がによろによろ[#「によろによろ」に傍点]してゐたつて何の役に立つものか。よし原の煤掃《すゝは》きとは譯が違はあ。早く亭主をひき摺り出せといふのに……。
助八 今までおれも氣が注《つ》かなかつたが、こゝの權三はまだ出て來ねえのか。なるほど盜人のひる寢にも程があらあ。(おかんに。)さあ、早く連れて來ねえよ。
おかん おまへさん達は人聞きが惡い。二口目にはぬす人のひる寢なんぞと、大きな聲で云つてお呉《く》んなさるなよ。内の人は夜の商賣が主だから、晝間寢てゐるのさ。それに不思議があるものかね。
助十 それを云へば、おれだつて同じ商賣で片棒をかついでゐるのぢやあねえか。そのおれが斯うして働いてゐるのに、相棒の權三が寢てゐるといふ法があるものか。
おかん 相棒と云つても、内の人は先棒だよ。ちつとは遠慮をするものさ。
助十 先棒でも後棒でも、斯ういふときに遠慮が出來るものか。
助八 先棒を嵩《かさ》にきて、乙《おつ》う大哥風《あにいかぜ》を吹かすなら、おめえの亭主なんぞは頼まねえ。これからは兄貴とおれとが相棒で稼ぎに出るばかりだ。
おかん 兄弟が相棒で御神輿《おみこし》でもかつぎに出るのかえ。(土間を見返りてあざ笑ふ。)肝腎《かんじん》のかつぐ物があるかよ。
助十 (すこし詰まつて。)なに、駕籠なんぞは何處からでも拾つて來る。なあ、八。
助八 むゝ、大川へ行つてみろ。そんな駕籠なんぞは上《あ》げ汐《しほ》で幾らも流れて來らあ。
おかん 下駄の古いのと一緒になるものかね。ばか/\しい。詰らない無駄口をおききでないよ。
助十 手前の方がよつぽど無駄口を利《き》いてゐやあがる。河岸の切見世《きりみせ》でぺちやくちや[#「ぺちやくちや」に傍点]囀《さへづ》つてゐた癖がぬけねえので、近所となりは大迷惑だ。おなじ年明《ねんあ》きを引摺り込むにしても、もう少し眞人間らしいのを連れて來ればいゝのに、權三の奴めも見かけによらねえ洟《はな》つ垂《た》らし野郎だ。
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(奧の障子をあけて權三、これも三十歳前後の刺青のある男、浴衣の片褄を取りながら出づ。)
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權三 やい、やい。さつきから奧で聞いてゐりやあ、手前たちは兄弟揃つて、よくも口から出放題の惡體《あくたい》もくたい[#「もくたい」に傍点]を列《なら》べ立てやあがつたな。なるほど俺のかゝあは吉原の河岸見世にゐた女で、飛んだ惚《のろ》けをいふやうだが、おたがひに好き合つて夫婦になつたのだ。それがなんで洟つ垂らしだ。惚れた女とは夫婦になるなといふ奉行所のお觸れでも出たのか。ざまあ見やがれ。
おかん ほんたうに近所迷惑とはこつちで云ふことさ。よるも晝も兄弟喧嘩を商賣のやうにしてゐて、その仲裁に行くのはいつでもあたしの役ぢやあないか。
助八 えゝ、手前たちこそ毎日毎晩、犬も食はねえ夫婦喧嘩ばかりしてゐやあがつて、その留男《とめをとこ》の役はいつでも誰が勤めると思つてゐるのだ。
助十 まあ、まあ、だまつてゐろ。こんなすべた[#「すべた」に傍点]女郎を相手にしたつて始まらねえ。やい、權三。(縁に腰をかける。)手前も海驢《あしか》の生れ變りぢやああるめえ。なんで一日寢そべつてゐるのだ。長屋中が惣出《そうで》の井戸がへを知らねえか。寢ぼけた面《つら》を早く洗つて、みんなと一緒に綱を引きに出て來い。ふだんから相棒のよしみに、長屋の義理や附合ひといふものを教へてやるのだ。ありがたいと思つて禮をいへ。
權三 それだからおれの名代《みやうだい》に、嚊をこの通り出してあるぢやあねえか。一軒の家から一人づつ出りやあ澤山だ。
助十 女なんぞは頭數ばかりで役にやあ立たねえ。おれの家ぢやあ斯うして大の男が兄弟揃つて出てゐるのだ。
權三 そりやあ手前たちの物ずきで勝手に騷いでゐるのよ。だれも頼んだわけぢやあねえ。折角よく寢てゐるところを、無暗にがあ/\呶鳴りやあがつて、たうとう起してしまやあがつた。(眼をこする。)おい、おかん。茶を一杯くれ。
おかん あい、あい。
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(おかんは茶を汲んでやれぱ、權三は飮む、この時、上のかたにて大勢の聲きこゆ。)
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大勢 さあ、さあ、引いた、引いた。
助八 あにい、又始まつたぜ。早く行かう。
助十 むゝ、こんな奴等にかゝり合つてゐると、日が暮れらあ。
大勢 引いた、引いた。
助十 おうい。待つてくれ。
助八 待つてくれ。
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