助十と助八は鉢卷をしめ直して、急いで上のかたへ行く。)
おかん ほんたうに憎らしい奴だねえ。あたしももう行くまいかしら。
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權三 かまふものか。打つちやつて置け。(團扇《うちは》を取る。)このごろは晝間でも藪つ蚊が出て來やあがる。
おかん 暑い暑いと云つても、もう秋だとみえて、縞《しま》のお袴《はかま》をはいた蚊がだん/\に大きくなつて來たねえ。
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(おかんも澁團扇をとつて權三を煽《あふ》いでやる。)
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權三 おや、おや、手前けふは忌《いや》に亭主孝行だな。今の話でむかしの事を思ひ出したか。
おかん なに、あいつ等へ面當《つらあ》てさ。
權三 面當てでなけりやあ大事にしてくれねえのか。心ぼそいことだな。
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(上のかたにて又もや大勢の聲きこゆ。)
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大勢 引いた、引いた。エンヤラサア。
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(上のかたより以前の雲哲と願哲が先に立ちて井戸換への綱を引き、つゞいて長屋の男二人と子供一人、その次に助十、いづれも綱をひいて出づ。又そのあとから長屋の女房と娘、つゞいて猿まはし與助は猿を背負ひ、その次に助八、長屋の男、子供など同じ綱をひいて出づ。井戸端にては水をあける音。一同は又引返して上のかたに入る。)
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助十 (行きながら權三を見かへる。)やい、この野郎。早く出て來ねえか。
權三 勝手にしやがれ。
助十 なんだ。(寄らうとして、綱にひかれてよろ/\となる。)えゝ、さう無暗に引いちやあいけねえ。やい、權三、手前はどうしても出て來ねえのか。えゝ、さう引いちやあいけねえと云ふのに……。
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(助十は綱に引かれて、よろけながら上のかたへ引返して入る。與助と助八はあとに殘る。)
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助八 (これも行きながら權三夫婦を見て。)やい、やい、夫婦ながら唯見てゐることがあるものか。お祭が通るのぢやあねえ。早く出て來い。こいつ等、出て來ねえと唯は置かねえぞ。
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(助八は寄らうとすると、與助の猿はその頭髻《たぶさ》をつかんで引く。)
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助八 えゝ、だれだ、誰だ。惡ふざけをしちやあいけねえ。止せ、よせ。
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(助八は猿に引かれながら、上のかたに入る。)
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權三 (笑ふ。)はゝ、好い觀《み》せ物だぜ。
おかん あいつはさつきも猿に引つかゝれたんだよ。
權三 あんな奴等は猿を相手に、きやつ[#「きやつ」に傍点]/\と云つてゐるのが丁度相富だ。
おかん ほんたうに猿芝居の役者だねえ。
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(夫婦は笑つてゐる。やがておかんは氣がついたやうに上のかたを見かへる。)
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おかん お長屋の人達がみんな出てゐるのに、中途から拔けてしまふのも何だから、せめてあたしだけでも行つて來ようかねえ。
權三 なに、打つちやつて置けといふのに……。ぐづ[#「ぐづ」に傍点]/\云ふのは助の兄弟ぐらゐのものだ。ほかにも文句をいふ奴があつたら、どいつでもおれが相手になつて遣《や》らあ。長屋中が束《たば》になつて來ても、びく[#「びく」に傍点]ともするもんぢやあねえ。矢でも鐵砲でも持つて來いだ。
おかん でも、大屋さんに叱られると困るぢやあないか。
權三 むゝ。(少し考へる。)去年もさん/″\膏《あぶら》を取られたつけな。
おかん それ、御覽な。ほかの奴はどうでも構はないけれど、大屋さんの心持を惡くするといけないからねえ。
權三 だが、大屋さんは善い人だ。まさかに店立《たなだ》ては食はせるとも云ふめえ。
おかん 善い人だけに、こつちでも其のつもりで附合はなくちやあ惡いよ。
權三 さうかなあ。(又かんがへる。)ぢやあ、いつそおれが行つて來ようか。(起ちかけて又かんがへる。)だが、これからのそ[#「のそ」に傍点]/\出て行くと、なんだか助の野郎におどかされたやうで、ちつと癪《しやく》だな。おれはまあ止さう。おめえも止せよ。
おかん 止してもいゝかねえ。
權三 大屋さんに叱られたら、あやまる分のことだ。なに、むづかしいことはねえ。あやまれば屹《きつ》と堪忍してくれるよ。
おかん あの大屋さんにあやまるのは、幾らあやまつても口惜しくはないけれど……。
權三 それだからあやまると決めて置けばいゝよ。
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(上のかたより助八は猿を引つかゝへて出づ。あとより與助が追つて出づ。)
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與助 これ、これ、わたしの猿をどこへ持つて行くのだ。
助八 こん畜生、二度も三度もおれにからかやあがつて……。もう生かして置かれるものか。あの井戸へ叩つ込んでしまふのだ。(上のかたへ引返して行きかゝる。)
與助 えゝ、飛んでもないことだ。
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(與助は猿を取返さうとして爭ふところへ、上のかたより助十出づ。)
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助十 これ、八。馬鹿なことをするなよ。
助八 なにが馬鹿だ。
助十 この最中に猿なんぞを相手にして騷いでゐる奴は馬鹿に相違ねえ。そんなものは打つちやつて置いて、早く行け、行け。
助八 いやだ、いやだ。こん畜生を井戸へ叩つ込まなけりやあ料簡出來ねえ。
助十 折角井戸がへをしたところへ、そんなものを叩つ込まれて堪るものか。馬鹿野郎、よせと云ふのに……。
助八 止《よ》さねえ、止さねえ。
助十 そんなら猿の身代りに手前をぶち込むからさう思へ。
助八 なにを云やあがる。
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(兄弟はむしり合ひ、なぐり合ひの喧嘩になる。その隙をみて與助は猿を取返し、逆さまに背負ひて上のかたへ走り去る。)
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權三 仕樣のねえ奴等だな。(おかんに。)留めてやれ、留めてやれ。
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(夫婦は縁から降りて、無理に兄弟を引き分ける。)
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權三 毎日めづらしくもねえ、兄弟喧嘩はよせ、よせ。
おかん 八さんも兄さんに楯《たて》を突くのはよくないよ。
助八 べらぼうめ。猿の味方をして弟をなぐるやうな奴は兄貴ぢやあねえ。
助十 手前のやうな判らずやは猿にも劣つてゐるのだ。
權三 まあ、いゝと云ふことよ。兄弟喧嘩ぢやあ、どつちから膏藥代《かうやくだい》を取るわけにも行かねえ。つまり毆られ損だ。止せ、止せ。
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(上のかたより家主六郎兵衞出づ。)
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六郎 これ、これ、みんな何をしてゐるのだ。もう些《ちつ》とだから怠けてはいけない。(上のかたに向つて團扇をあげる。)さあ、さあ、早く引いた、引いた。
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(上のかたより雲哲、願哲をはじめ長屋の人々は綱を持ちて出で來り、再び上のかたへ引返してゆく。)
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六郎 助八。おまへはこの忙がしい最中に猿にからかつて騷いでゐたさうだな。
助八 なに、こつちが猿にからかはれたので……。
六郎 まあ、なんでもいゝから早く行つて、手傳へ、手傳へ。貴樣は長屋で一枚看板の馬鹿野郎だ。
助八 あい、あい。大屋さんに逢つちやあかなはねえ。
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(助八は叱られて、これも早々に上のかたへゆく。)
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おかん 大屋さん。今日はお暑いのに御苦勞樣でございます。
權三 まあ、まあ、こゝへお掛けなせえ。
六郎 (權三を見て。)おゝ、お前はさつきから井戸端へ些とも顏を見せなかつたやうだな。
權三 (ぎよつとして。)え。實は其、すこし用がありまして……。
おかん 早くあやまつておしまひよ。(眼で知らせる。)
權三 まつたく據《よんどころ》ない用がありまして……。
六郎 よんどころない用があつた……。
權三 へえ、急病人が出來まして……。
助十 いや、こいつ呆れた奴だ。もし、大屋さん。だまされちやあいけねえ。そんなことは皆んな嘘ですよ。
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(夫婦はあわてて手をふる。)
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助十 (いよ/\呶鳴る。)えゝ、嘘だ、嘘だ。大うその川獺《かはうそ》だ。奧に樂々と晝寢をしてゐやあがつて、おれが幾度催促に來ても出て來なかつたぢやあねえか。
權三 だから、急病人が出來たと云つてゐるのが判らねえかよ。
助十 その急病人はどこにゐる。
權三 その急病人は……。おれだ、おれだ。
助十 這奴《こいつ》いよ/\呆れた奴だ。朝つぱらから酒を飮んでゐやあがつた癖に、急病人もよく出來た。あんまり人を馬鹿にするな。
おかん そのお酒に中《あた》つたんですよ。
助十 えゝ、なにも彼も嘘だ、嘘だ。
六郎 成程これは嘘らしいぞ。これ、權三。おまへは去年のことを忘れたか。一年に唯《た》つた一度の井戸がへで、家主のおれまでが汗みづくになつて世話を燒いてゐる。そのなかで假病《けびやう》の晝寢なぞをしてゐて、長屋の義理が濟むと思ふか。去年もあれほど叱つて置いたのに、今年も相變らず横着をきめるとは太い奴だ。又、女房も女房だ。さつきちよいと其の生《なま》つ白《ちろ》い顏を出したかと思ふと、もうそれぎりで隱れてしまふとは、揃ひも揃つた横着者め。さあ、さあ、早く出て働け、働け。
夫婦 はい、はい。
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(上のかたにて大勢の呼ぶ聲きこゆ。)
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大勢 それ、引いた。引いた。エンヤラサア。
六郎 (上のかたを見て。)それ、引いて來る。早くしろ、早くしろ。
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(助十は上のかたへ駈けてゆく。權三とおかんもかけ出してゆく。やがて上のかたより以前の如く、雲哲、願哲が先に立ち、長屋の男二人と子供ひとりが綱をひいて出づ。助十と權三とおかんも綱をひいてゐる。この時、下のかたの路地口より小間物屋彦三郎、廿歳ぐらゐの若者、旅すがたにて出づ。)
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助十 さあ、さあ、引け、引け。
權三 引いたり、引いたり。
一同 エンヤラサア。
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(彦三郎は綱をひく人々を避《よ》けながら來るうちに、助十に突きあたる。)
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助十 えゝ、なにをしやあがる。
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(助十に突き退《の》けられて、彦三郎はよろめきながら更に權三に突きあたる。)
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