ゐる若い人は小間物屋の彦兵衞さんの息子で、これからおまへの兄貴と權三を證人にして、お父さんの無實の罪を訴へて出ようといふのだ。
助八 證人ならば家主が附添ひで、おとなしく連れて行くがいゝぢやあねえか。なんで繩をかけるのだ。
六郎 そのわけは今云つて聞かせる。みんなもよく聞け。今度の一件は並一通《なみひととほ》りのことではいけない。本來ならばこの彦三郎さんがどこにか宿を取つて、その町名主の手から御奉行所へ訴へて出るのが順當だが、そんなことでは容易に埒《らち》が明かないばかりか、一旦落着したお捌《さば》きの再吟味を願ふなどと云つては、御奉行樣のお手許《てもと》まで達《とゞ》かないうちに、下役人の手で握り潰《つぶ》されてしまふのは知れてゐる。そこでおれが考へたには、この三人に繩をかけて御奉行所へ牽いて行つて、小間物屋彦兵衞のせがれ彦三郎と申す者がわたくし方へ押掛けてまゐり、父彦兵衞は決して盜みなど致すものでない。それを罪人と定められたは恐れながらお上のお眼がね違ひ、二つには家主の不穿索《ふせんさく》と、さん/″\の惡口を云ひ募《つの》るのみか、長屋の駕籠かき權三助十の兩人もその腰押しをいたして、理不盡の亂暴|狼藉《らうぜき》をはたらき……。
權三 (おどろいて。)嘘だよ、うそだよ。おれ達が何をするものか。 
助十 御奉行所へ行つて、そんな出鱈目《でたらめ》を云はれちやあ大變だ。
六郎 まあ、騷ぐなよ。そのくらゐに云はなければ中々お取上げにはならないのだ。そこで、よんどころなく長屋中の者うち寄つて右三人を取押へ、かやうに引立ててまゐりましたれば、何とぞ上の御威光を以て彼等に理解を加へ、穩便《をんびん》に引取りまするやうに御取計《おとりはか》らひを願ひ上げますると、おれの口から斯う訴へ出るのだ。どうだ、判つたか。かうすれば屹とお取上げになるに違ひない。
助八 なるほどさうかも知れねえな。こいつは巧めえことを考へ出したね。
おかん 大屋さんは正直な人だと思つてゐたら、うそをつくのは中々上手だわねえ。
助八 まつたく隅へは置かれねえや。
六郎 つまらないことを褒《ほ》めるな。こつちは一生懸命だ。そこで、お白洲《しらす》へ呼び込まれたら、それからはめい/\の腕次第で、彦三郎さんは自分の思ふことを存分に云うが好し、權三と助十は自分の見た通りを逐一申立てて、馬喰町の隱居殺しはどうしても勘太郎の仕業であらうと存じますと、はつきり[#「はつきり」に傍点]云ふのだ。(考へて。)彦三郎さんは大丈夫だらうが、おまへ達にそれが出來るか。
權三 出來ても出來ねえでも仕樣がねえ。今も嚊《かゝあ》に云はれた通り、一つ長屋の彦兵衞さんが繩附きになつて出て行くのを知つてゐながら、今まで默つてゐたのはどうも良くねえ。實はわつしも内々は氣が咎《とが》めて、なんだか寢ざめが好くなかつたのだから、その罪ほろぼしに出來るだけ遣つてみませうよ。
彦三郎 なにぶんお願ひ申します。(助十に。)おまへさんにも宜しくお頼み申します。
助十 まあ、心配しなさんな。かう見えても江戸つ子の神田つ子だ。自棄《やけ》のやん[#「やん」に傍点]八で度胸を据ゑた日にやあ、相手が大岡樣でもなんでも構はねえ、云うだけのことは皆んなべら[#「べら」に傍点]/\云つて遣らあ。細工は流々《りう/\》、仕上げを御覽《ごらう》じろだ。
權三 おや、おや、手前は急に強くなつたぜ。變な野郎だな。
六郎 だが、まあ、強くなつた方は結構だ。その勢ひで皆んな縛られてくれ。
おかん (かんがへる。)縛られて行つて、すぐに歸して下さるでせうかねえ。
六郎 それは受合へない。町内あづけとでも來れば占《し》めたものだが、吟味中は一先づ入牢《じゆろう》といふことになるかも知れないな。
おかん あら、牢に入れられるの……。(泣き出す。)お家主さん。それぢやああんまりぢやあありませんか。罪もない内の人を牢へ入れて……。若しいつまでも歸されなかつたら、お前さんどうしてくれるんですよ。
助八 吟味中は入牢なんていふことになると、兄貴もちつと可哀さうだな。もし、大屋さん。兄貴の身代りにわつしを縛つて行つてくれませんかね。どうせ拵《こしら》へ事なら兄貴でも弟でも構ふめえ。わつしの亂暴は世間でも皆んな知つてゐるんだから、わつしが暴れたといふ方が却つて本當らしいかも知れませんぜ。
六郎 だが、その晩のことを詳しくお調べになつたときに、本人でないと申口《まをしぐち》が曖昧になつていけない。やつぱり兄貴を縛るより外はないな。
助八 (助十の顏をのぞく。)兄い、おめも好いかえ。
助十 いゝよ、いゝよ。大丈夫だ。
助八 だが、どうもおれを遣つた方がよささうだな。大屋さん、どうしてもいけませんかえ。
六郎 まあ、まあ、さう案じることはない。(おかんに。)おまへも泣くなよ。自慢ぢやあないが、大岡樣とこの家主が附いてゐるのだ。決して惡いやうにはならないよ。
おかん (不安らしく。)それもやつぱり大屋さんの嘘ぢやあありませんかえ。
六郎 おれだつて無暗に嘘をつくものか。安心しろよ。
おかん 若しもこれぎりで内の人が歸つて來なかつたら、屹とおまへさんを恨むからさう思つておいでなさいよ。(泣く。)
彦三郎 (氣の毒さうに。)どうも皆さんに御迷惑をかけまして、なんとも申譯もないことでござります。(六郎兵衞に。)では、お繩をおかけ下さりませ。(兩手をうしろへ廻す。)
六郎 おまへさんはわたしが縛る。(雲哲等に。)おまへ達は權三と助十を縛つてやれ。
雲哲 あい、あい。長屋中の持て餘し者がどつちもたうとう繩附きか。
願哲 これだから惡いことは出來ないな。
權三 なにを云やあがる。手前たちの知つたことぢやあねえ。
助十 あとでびつくりしやあがるな。さあ、どうとも勝手にしやあがれ。
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(權三も助十も覺悟して縛られようとする。)
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六郎 これ、ちつとぐらゐ痛くつても構はない、遠慮なしにぐる[#「ぐる」に傍点]/\卷きにふん[#「ふん」に傍点]縛れよ。
雲哲 大屋さんからお許しが出たのだ。せいぜい嚴重に縛つてやれ。
願哲 はゝ、面白い、面白い。
おかん なにが面白いものか。ほんたうに好い面の皮だ。
助八 こいつ等、面白半分に騷ぎ立てやあがると、おれが料簡しねえぞ。
六郎 はて、喧嘩をしてはならない。靜かにしろ、靜かにしろ。
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(雲哲と願哲は笑ひながら二人を縛りあげる。六郎兵衞も彦三郎を縛る。)
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六郎 ところで、そつちの二人は兎《と》も角《かく》も、この人を數寄屋橋内《すきやばしうち》まで引摺つて行くのは可哀さうだ。(土間をみかへる。)おゝ、丁度そこに駕籠がある、と云って、權三と助十は繩附きで擔がせるわけにも行かず、これ、助八。だれか相棒をさがして擔いで行け。
助八 え、おれにかつがせるのかえ。
六郎 あたりまへよ。貴樣の商賣ではないか。
助八 商賣は商賣だが、こいつは氣のねえ仕事だな。どうで酒手《さかて》は出やあしめえ。
六郎 ぐづ/\云はずに、早く相棒を見つけて來いよ。おゝ、誰彼といふよりも、雲哲、おまへが片棒かついでやれ。
雲哲 大屋さんのお指圖だが、これは難儀だ。おれも弔《とむら》ひの差荷《さしにな》ひはかついだが、生きた人間を乘せたのはまだ一度も擔いだことがないので……。
助八 まあ、仕方がねえ、おれが先棒になつて遣るから、あとからそろ/\附いて來い。さあ、手をかせ。
雲哲 やれ、やれ。兎かく長屋に事なかれだ。
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(助八と雲哲は土間から駕籠を持ち出してくる。)
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彦三郎 いえ、それではあんまり恐れ入ります。
六郎 なに、遠慮はないから乘つておいでなさい。
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(六郎兵衞は彦三郎の手を取りて駕籠にのせる。助八と雲哲は身支度をする。おかんは奧に入る。上のかたより猿まはし與助がうろ/\出づ。)
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與助 大屋さん。井戸がへは何うしますね。
六郎 急に大事の用が出來て、おれは御番所《ごばんしよ》へ出なければならないから、井戸がへの方はまあ宜しく遣つてくれ。おゝ、さうだ。おまへにも用がある。願哲は權三の繩取りをして、おまへは助十の繩を取つて行け。
與助 (おどろいて。)え、どこへまゐります。
六郎 南の御奉行所へ行くのだ。
與助 え。(ふるへる。)
六郎 なにも怖がることはない。おれが一緒に附いて行くのだから安心しろ。
與助 はい、はい。
六郎 併し猿を背負つてゐては少し困るな。だれかに預けて行け。
與助 いえ、この猿めは迚《とて》もわたくしの傍を離れませんから、一緒に連れて行かして下さい。
六郎 では、まあ勝手にするがいゝや。(一同に。)さあ、めいめいの役割がきまつたら、日の暮れないうちに出かけようぜ。
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(願哲は權三の繩を取り、與助は助十の繩を取りて引立てる。助八と雲哲は駕籠を舁《か》き上げようとして、雲哲はよろける。)
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助八 おい、おい、しつかりしろよ。
雲哲 おれは素人《しらうと》だ。仕方がない。
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(奧よりおかんは新らしい手拭と半紙を持ちて出づ。)
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おかん まあ、待つてください。(權三のふところに手拭と紙を入れる。)おまへさん、達者で歸つて來て下さいよ。
權三 えゝ、縁喜《えんぎ》でもねえ、泣くな、泣くな。すぐに歸つて來るよ。
助八 (それを見て。)あ、おれも忘れた。待つてくれ。待つてくれ。(わが家の奧へかけ込む。)
六郎 (氣がついて。)あ、おれも忘れた。これ、雲哲。このまゝで御番所へは出られない。家《うち》へ行つておれの羽織を取つて來てくれ。
雲哲 大屋さんは相變らず人使ひが暴《あら》いな。
六郎 生意氣なことをいふな。この願人坊主《ぐわんにんぼうず》め、早く行つて來い。
雲哲 あい、あい。(上のかたに去る。)
おかん (權三に。)おまへさんも着物を着かへて行つちやあどうだえ。
權三 繩をほどいて又縛られるのは面倒だ。これでいゝ、これでいゝ。どうでお花見に行くんぢやねえ。
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(家の奧より助八は緡《さし》の錢を持ちて出づ。)
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助八 地獄の沙汰も金次第といふが、身上《しんしやう》ふるつても二百の錢しかねえ。これでも何かの役に立つかも知れねえから、持つて行くがいゝぜ。(助十のふところに押込む。)

助十 唯つた二百ばかりがどうなるものか。見つともねえから止《よ》せ、止せ。第一それをおれに呉れてしまふと、あしたの米を買ふ錢があるめえ。
助八 なに、おれは一日ぐらゐ食はずと生きてゐられらあ。まあ、まあ、持つて行く方がいいよ。
おかん ほんたうに心細くつてならないねえ。(權三に。)おまへさんにも幾らか持たして上げたいんだけれど……。ちよいとお待ちよ。表の質屋へ行つて來るからさ。
權三 そんなことをしてゐると遲くなる。すぐに歸つて來るんだから、錢なんぞは要らねえ、要らねえ。
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(上のかたより雲哲は夏羽織を持ちて出づ。)
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六郎 御苦勞、御苦勞。(羽織をきる。)さつきも云ふ通り、おれもこの年になるが、かういふ事は初めてだ。當年六十歳の初陣《う
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