番のおばあさんがいるんだけれども、居眠りでもしているのか、つんぼうか、いくら呼んでも返事をしないんです。」
 彼がうっかりと口をすべらせると、おかみさんは俄かに顔の色をかえた。
「あ、おばあさんが……。また出ましたか。」
 この落語家はひどい臆病だ。また出ましたかの一言にぞっとして、これも顔の色を変えてしまって、挨拶もそこそこに逃げ出した。もちろん家主の酒屋へ聞合せなどに行こうとする気はなく、顫《ふる》えあがって足早にそこを立去ったが、だんだん落ちついて考えてみると、八月の真っ昼間、暑い日がかんかん[#「かんかん」に傍点]照っている。その日中に幽霊でもあるまい。おれの臆病らしいのをみて、あの女房め、忌《いや》なことを言っておどしたのかも知れない。ばかばかしい目に逢ったとも思ったが、半信半疑で何だか心持がよくないので、その日は貸家さがしを中止して、そのまま師匠の家へ帰った。
 この年は残暑が強いので、どこの寄席も休みだ。日が暮れてもどこへ行くというあてもない。
「今夜は二十六夜さまだというから、おまえさんも拝みに行っちゃあどうだえ。」
 師匠のおかみさんに教えられて、彼は気がついた。今夜
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