どこの幽霊が戸惑いをして来たのか、それはわからない。
 その話を聞いて、彼はまた蒼くなって、自分はその得体の知れない幽霊に取付かれたに相違ないときめてしまった。家へ帰る途中から気分が悪くなって、それから三日ばかりは半病人のようにぼんやりと暮らしていたが、かのばあさんは執念ぶかく彼を苦しめようとはしないで、その後かれの前に一度もその姿をみせなかった。彼も安心して、九月からは自分の持席をつとめた。
 かのあき家は冬になるまでやはり貸家の札が貼られていたが、十一月のある日、しかも真っ昼間に突然燃え出して焼けてしまった。それが一軒焼けで終ったのも、なんだか不思議に感じられるというのであった。

     二

 第二は十五夜――これは短い話で、今からおよそ二十年ほど前だと覚えている。芝の桜川町付近が市区改正で取拡げられることになって、居住者は或る期間にみな立退いた。そのなかで、或る煙草屋――たしか煙草屋だと記憶しているが、あるいは間違っているかも知れない。――の主人が出張の役人に対してこういうことを話した。
 自分は明治以後ここへ移って来たもので、二十年あまりも商売をつづけているが、ここの家には一つの不思議がある。時どきに二階の梯子の下に人の姿がぼんやりと見える。だんだん考えてみると、それが一年に一度、しかも旧暦の八月十五夜に限られていて、当夜が雨か曇りかの場合には姿をみせない。当夜が明月であると、きっと出てくる。どこかの隙間から月のひかりが差込んで、何かの影が浮いてみえるのかとも思ったが、ほかの月夜の晩にはかつてそんなことがない、かならず八月の十五夜に限られているのも不思議だ。人の形ははっきり判らないが、どうも男であるらしい。別にどうするというでもなく、ただぼんやりと突っ立っているだけのことだから、こっちの度胸さえすわっていれば、まず差したる害もないわけだ。
 この主人もいくらか度胸のすわった人であったらしい。それにもう一つの幸いは、その怪しいものは夜半《よなか》に出て、明け方には消える。ことに一年にたった一度のことであるので、細君をはじめ家内の人たちは誰もそれを知らないらしい。あるいは自分の眼にだけ映って、ほかの者には見えないのかも知れないと思ったが、いずれにしても、迂濶《うかつ》なことをしゃべって家内のものを騒がすのもよくない。そんな噂が世間にきこえると、自然商売の障りにもなる。かたがたこれは自分ひとりの胸に納めておく方がいいと考えて、家内のものにも秘《かく》していた。そうして、幾年を送るうちに、自分ももう馴れてしまって、さのみ怪しまないようにもなった。
 ところで、今度ここを立退くについて、家屋はむろん取毀されるのであるから、この機会に床下その他を検《あらた》めてもらいたい。あるいは人間の髑髏《どくろ》か、金銀を入れた瓶《かめ》のようなものでも現れるかも知れないと、その主人がいうのだ。成程そんなことは昔話にもよくあるから、物は試しにその床下を発掘してみようということになると、果して店の梯子の下あたりと思われるところ、その土の底から五つの小さい髑髏が現れた。但しそれは人間の骨ではない、いずれも獣の頭であることが判った。その三つは犬であったが、他の二つは狢《むじな》か狸ではないかという鑑定であった。いつの時代に、何者が五つの獣の首を斬って埋めて置いたのか、又どうしてそんなことをしたのか、それらのことは永久の謎であった。
 二、三の新聞では、それについていろいろの想像をかいたが、結局不得要領に終ったようだ。

     三

 第三は十三夜――これは明治十九年のことだ。そのころ僕の家は小石川の大塚にあった。あの辺も今でこそ電車が往来して、まるで昔とはちがった繁華の土地になったが、明治の末頃まではまだまだ寂しい町で、江戸時代の古い建物なども残っていた。まして明治十九年、僕がまだ十五六の少年時代は、山の手も場末のさびしい町で、人家の九分通りは江戸の遺物というありさまだから、昼でもなんだか薄暗いような、まして日が暮れるとどこもかしこも真っ暗で、女子供の往来はすこし気味が悪いくらいであった。そういうわけだから、地代ももちろん廉《やす》く、家賃も安い。僕の親父はそこに小さい地面と家を買って住んでいたので、僕もよんどころなくそこで生長したのだ。
 ところが、僕の中学の友達で梶井という男があたかも僕の家の筋向うへ引っ越して来ることになった。梶井の父は銀行員で、これもその地面と家とを法外に安く買って来たらしかった。今まで住んでいたのは本多なにがしという昔の旗本で、江戸以来ここに屋敷を構えていたのだが、維新以来いろいろの事業に失敗して、先祖以来の屋敷をとうとう手放すことになって、自分たちは沼津の方へ引っ込んでしまった。それを買いとって、梶井の一家が新
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