は旧暦の七月二十六夜だ。話には聞いているが、まだ一度も拝みに出たことはないので、自分も商売柄、二十六夜|待《まち》というのはどんなものか、なにかの参考のために見て置くのもよかろうと思ったので、涼みがてらに宵から出かけた。二十六夜の月の出るのは夜半《よなか》にきまっているが、彼と同じような涼みがてらの人がたくさん出るので、どこの高台も宵から賑わっていた。
彼はまず湯島天神の境内へ出かけて行くと、そこにも男や女や大勢の人が混みあっていた。その中には老人や子供も随分まじっていた。今とちがって、明治の初年には江戸時代の名残りをとどめて、二十六夜待などに出かける人たちがなかなか多かったらしい。彼もその群れにまじってぶらぶらしているうちに、ふと或るものを見付けてまたぞっとした。その人ごみのなかに、昼間下谷の空家で見た婆さんらしい女が立っているのだ。広い世間におなじような婆さんはいくらもある。ばあさんの顔などというものは大抵似ているものだ。まして昼間見たのはその横顔だけで、どんな顔をしているのか確かに見届けた訳でもないのだが、どうもこのばあさんがそれに似ているらしく思われてならない。幾たびか水をくぐったらしい銚子縮《ちょうしちぢみ》の浴衣《ゆかた》までがよく似ているように思われるので、彼は何だか薄気味が悪くなって、早々にそこを立去った。
彼は方角をかえて、神田から九段の方へ行くと、九段坂の上にも大勢の人がむらがっていた。彼はそこで暫くうろうろしていると、またぞっとするような目に逢わされた。湯島でみたあのばあさんがいつの間にかここにも来ているのだ。彼はもし自分ひとりであったら思わずきゃっと声をあげたかも知れないほどに驚いて、早々に再びそこを逃げ出した。
彼はそれから芝の愛宕山へのぼった。高輪の海岸へ行った。しかも行く先々の人ごみのなかに、きっとそのばあさんが立っているのを見いだすのだ。勿論そのばあさんが彼を睨むわけでもない、彼にむかって声をかけるわけでもない、ただ黙って突っ立っているのだが、それがだんだんに彼の恐怖を増すばかりで、彼はもうどうしていいか判らなくなった。自分はこのばあさんに取付かれたのではないかと思った。
月の出るにはまだ余程時間があるのだが、彼にとってはもうそんなことは問題ではなかった。なにしろ早く家へ帰ろうと思ったが、その時代のことだから電車も鉄道馬車もない。高輪から人力車に乗って急がせて来ると、金杉の通りで車夫は路ばたに梶棒《かじぼう》をおろした。
「旦那、ちょいと待ってください。そこで蝋燭を買って来ますから。」
こう言って車夫は、そこの荒物屋へ提灯の蝋燭を買いに行った。荒物屋――昼間のおかみさんのことを思い出しながら、彼は車の上から見かえると、自分の車から二間ほど距《はな》れた薄暗いところに一人の婆さんが立っていた。それを一と目みると、彼はもう夢中で車から飛び降りて、新橋の方へ一目散に逃げ出した。
師匠の家は根岸だ。とてもそこまで帰る元気はないので、彼は賑やかな夜の町を駈け足で急ぎながら、これからどうしようかと考えた。かのばあさんはあとから追って来るらしくもなかったが、彼はなかなか安心できなかった。三十間堀の大きい船宿に師匠をひいきにする家がある。そこへ行って今夜は泊めて貰おうと思いついて、転げ込むようにそこの門《かど》をくぐると、帳場でもおどろいた。
「おや、どうしなすった。ひどく顔の色が悪い。急病でも起ったのか。」
実はこういうわけだと、息をはずませながら訴えると、みんなは笑い出した。そこに居あわせた芸者までが彼の臆病を笑った。しかし彼にとっては決して笑いごとではなかった。その晩はとうとうそこに泊めてもらうことにして、肝腎の月の出るころには下座敷の蚊帳《かや》のなかに小さくなっていた。
あくる朝、根岸の家へ帰ると、ここでも皆んなに笑われた。あんまり口惜しいので、もう一度出直して御徒町へ行って、近所の噂を聞いてみると、かの貸家には今まで別に変ったことはない。変死した者もなければ、葬式の出たこともない。今まで住んでいたのは質屋の番頭さんで、現に同町内に引っ越して無事に暮らしている。しかしその番頭の引っ越したのは先月の盂蘭盆前で、それから二、三日過ぎて迎い火をたく十三日の晩に、ひとりの婆さんがその空家へはいるのを見たという者がある。
その婆さんはいつ出て行ったか、誰も知っている者はなかったが、その後ときどきに、そのばあさんの坐っている姿をみるというので、家主の酒屋でも不思議に思って、店の者四、五人がその空家をしらべに行って、戸棚をあらため、床の下までも詮索したが、なんにも怪しいものを発見しなかった。
そんな噂がひろがって、その後は誰も借り手がない。そうして、その空家には時どきにそのばあさんの姿がみえる。
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング