月の夜がたり
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)落語家《はなしか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十六夜|待《まち》というのは
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)てくてく[#「てくてく」に傍点]あるきで、
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一
E君は語る。
僕は七月の二十六夜、八月の十五夜、九月の十三夜について、皆一つずつの怪談を知っている。長いものもあれば、短いものもあるが、月の順にだんだん話していくことにしよう。
そこで、第一は二十六夜――これは或る落語家《はなしか》から聞いた話だが、なんでも明治八、九年頃のことだそうだ。その落語家もその当時はまだ前座からすこし毛の生えたくらいの身分であったが、いつまで師匠の家《うち》の冷飯《ひやめし》を食って、権助同様のことをしているのも気がきかないというので、師匠の許可を得て、たとい裏店《うらだな》にしても一軒の世帯をかまえることになって、毎日貸家をさがしてあるいた。その頃は今と違って、東京市中にも空家《あきや》はたくさんあったが、その代りに新聞広告のような便利なものはないから、どうしても自分で探しあるかなければならない。彼も毎日尻端折りで、浅草下谷辺から本所、深川のあたりを根《こん》よく探しまわったが、どうも思うようなのは見付からない。なんでも二間《ふたま》か三間ぐらいで、ちょっと小綺麗な家で、家賃は一円二十五銭どまりのを見付けようという注文だから、その時代でも少しむずかしかったに相違ない。
八月末の残暑の強い日に、かれは今日もてくてく[#「てくてく」に傍点]あるきで、汗をふきながら、下谷御徒町の或る横町を通ると、狭い路地の入口に「この奥にかし家」という札がななめに貼ってあるのを見付けた。しかも二畳と三畳と六畳の三間《みま》で家賃は一円二十銭と書いてあったので、これはおあつらえ向きだと喜んで、すぐにその路地へはいってみると、思ったよりも狭い裏で、突当りにたった一軒の小さい家があるばかりだが、その戸袋の上にかし家の札を貼ってあるので、かれはここの家に相違ないと思った。このころの習わしで、小さい貸家などは家主がいちいち案内するのは面倒くさいので、昼のうちは表の格子をあけておいて、誰でも勝手にはいって見ることが出来るようになっていた。ここの家も表の格子は閉めてあったが、入口の障子も奥の襖もあけ放して、外から家内をのぞくことが出来るので、彼もまず格子の外から覗いてみた。もとより狭い家だから、三尺のくつぬぎを隔てて家じゅうはすっかり見える。寄付《よりつき》が二畳、次が六畳で、それにならんで三畳と台所がある。うす暗いのでよく判らないが、さのみ住み荒らした家らしくもない。
これなら気に入ったと思いながらふと見ると、奥の三畳に一人の婆さんが横向きになって坐っている。さては留守番がいるのかと、彼は格子の外から声をかけた。
「もし、御免なさい。」
ばあさんは振向かなかった。
「御免なさい。こちらは貸家でございますか。」と、彼は再び呼んだ。
ばあさんはやはり振向かない。幾度つづけて呼んでも返事はないので、彼は根負けがした。あのばあさんはきっと聾に相違ないと思って舌打ちしながら表へ出ると、路地の入口の荒物屋ではおかみさんが店先の往来に盥《たらい》を持出していたので、彼は立寄って訊《き》いた。
「この路地の奥の貸家の家主さんはどこですか。」
家主はこれから一町ほど先の酒屋だと、おかみさんは教えてくれた。
「どうも有難うございます。留守番のおばあさんがいるんだけれども、居眠りでもしているのか、つんぼうか、いくら呼んでも返事をしないんです。」
彼がうっかりと口をすべらせると、おかみさんは俄かに顔の色をかえた。
「あ、おばあさんが……。また出ましたか。」
この落語家はひどい臆病だ。また出ましたかの一言にぞっとして、これも顔の色を変えてしまって、挨拶もそこそこに逃げ出した。もちろん家主の酒屋へ聞合せなどに行こうとする気はなく、顫《ふる》えあがって足早にそこを立去ったが、だんだん落ちついて考えてみると、八月の真っ昼間、暑い日がかんかん[#「かんかん」に傍点]照っている。その日中に幽霊でもあるまい。おれの臆病らしいのをみて、あの女房め、忌《いや》なことを言っておどしたのかも知れない。ばかばかしい目に逢ったとも思ったが、半信半疑で何だか心持がよくないので、その日は貸家さがしを中止して、そのまま師匠の家へ帰った。
この年は残暑が強いので、どこの寄席も休みだ。日が暮れてもどこへ行くというあてもない。
「今夜は二十六夜さまだというから、おまえさんも拝みに行っちゃあどうだえ。」
師匠のおかみさんに教えられて、彼は気がついた。今夜
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