に少しく風邪を引いたので、当分は張番を見合せることになった。それでも毎朝一度ずつは空地を見廻って、新しい穴が掘られているかどうかを調べていたが、最初に発見された九カ所と後の一カ所と、その以外には新しい穴は見いだされなかった。かれらもこのいたずら――まずそうらしく思われる――を中止したらしかった。
それから半月あまり無事に過ぎた。その以来、家内の女たちをおびやかすような怪しい響きもきこえなくなって、この問題も自然に忘れられかかった時に、父はふとあることを思いついた。それはあたかも日曜日の朝であったので、父はすぐに近所の米屋をたずねた。
米屋は前にいったような事情で、わたしの家を昔の持主から譲りうけて、更にそれをわたしの父に売り渡したのである。そうして、現在もわたしの家に米を入れている。その米屋の主人に逢って、昔の持主のことをたずねると、主人はこう答えた。
「その節も申上げましたが、あなたのお屋敷には安達《あだち》さんというお武家が住んでいらしったのでございますが、そのお方は脱走して、越後口で討死をなすったということでございます。」
「その安達という人の家族はどうしたね。」と、父はまた訊いた。
「どうなすったか判りませんでしたが、ひと月ほども前に、その奥さんがふらりと尋ねておいでになりまして、なんでも今までは上総《かずさ》の方とかにおいでになったというお話でした。そうして、わたしの家には誰が住んでいるとお聞きになりましたから、矢橋さんという方がお住まいになっていると申しましたら、そうかといってお帰りになりました。」
「その奥さんは今どこにいるのだろう。」
「やはり同区内で、芝の片門前《かたもんぜん》にいるとかいうことでした。」
「どんなふうをしていたね。」
「さあ。」と、主人は気の毒そうに言った。「ひどく見すぼらしいという程でもございませんでしたが、あんまり御都合はよくないような御様子でした。」
「奥さんは幾つぐらいだね。」
「瓦解《がかい》の時はまだお若かったのですから、三十五ぐらいにおなりでしょうか。」
「子供はないのですかね。」
「お嬢さんが一人、それは上総の御親戚にあずけてあるとかいうことでした。」
「片門前はどの辺か判らないかね。」
「さき様でも隠しておいでのようでしたから、わたくしの方でも押し返しては伺いませんでした。」
それだけのことを聞いて、父は帰
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