が殆《ほとん》ど大阪の松竹に属することになりました。その時分から米斎君は松竹に関係されることになって、どこの劇場でも新作が出れば米斎君のところへ持込むという風でした。何しろ松竹系といえば、帝劇を除いて東京の有名な劇場は皆そうなのですから、一時は米斎君も彼方此方《あっちこっち》の芝居を掛持で、随分お忙しかったようです。三越の方も大正五年頃に御引きになって、それからは何だか画家というよりも、舞台装置専門家のような形でした。
ところが昭和二年頃から三年ばかり、強い神経衰弱で、その方の仕事を休んでおいででしたから、その間は已《や》むを得ず、外の人に頼んでいましたが、この三年ばかり此方《こっち》、また芝居の方を続けられることになって、現にこの二月の東劇に上演した私の『三井寺絵巻』なども、米斎君に御願いしました。米斎君としてはこれが最後だったわけで、先達《せんだって》も奥さんが御見えになった時、丁度私のものが最後になって、かなり久しい御馴染《おなじみ》でしたが、やはり御縁があったんでしょうと申上げたような次第です。
今日ではいろいろな方が舞台装置をなさるようになりましたし、大正年代にも他の方が
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