ポをツンポルテンに著ているのが本当であっても、それが白く塗って女にでも惚れられるような役だというと、どうも恰好《かっこう》がつかない。嘘でも袖を丸くして、長い著物にしてもらわなければ工合が悪いのです。芝居というものはイリュージョンを破りさえしなければいいので、何も有職故実《ゆうそくこじつ》をおぼえに来るところじゃない。もしそんなつもりで来る人があれば、その方が心得違いなんですから、大体その時代らしく、芝居としても都合のいいように拵えればいいわけなのだが、学者の考証家先生になると、なかなかそう行かない。新規に道具を拵えさせてみたり、見物に見えないような細かいところまで、むずかしい考証が出たりして困るのですが、米斎君ならそういう心配がなかった。芝居として都合のいいように考えて下さるから、芝居も助かり、作者も助かるのです。今後はどういう方がやって下さるか知りませんが、そう申しちゃ失礼だけれども、馴れないうちは御互に困る事が出来やしないかと思います。
 芝居の舞台装置をはじめてやる方は、平生から芝居をよく見てて僕ならこうやるというわけで、蘊蓄《うんちく》を傾けられるのですが、芝居の方には二百何十年という長い間の伝統があって、いろいろ工夫を積んだ結果、今日のようなものになっているのですから、平凡なようでも無事な型が出来ている。変った舞台面は結構だけれどもあまりむやみに破壊してかかると、何かに差支《さしつかえ》を生じて来る。御承知の通り、舞台は正面からばかり見るのじゃありませんから、その辺も考えなければならず、殊《こと》に近頃のように何階も高い席が出来て、上から見下されることになると、それだけでも大分むずかしいわけです。
 だから芝居のやりいいようにさえすればいいようなものですが、舞台装置をやる人の立場になると、またそうばかり行かぬ点があります。仮に米斎君のやった舞台装置を他の画家が見に来るとします。米斎君の方では芝居の都合を考えてやった事でも、久保田君はあんな事を知らないか、という風になりかねない。専門家とすればそこがむずかしいわけでしょう。批評する方に芝居気があればいいけれども、まるで帝展の画でも見るような調子で、直《す》ぐに物を識らないといって非難されては困る。自分の立場もある程度までは守らなければなりますまい。昔なら「そこが芝居だ」という迯道《にげみち》があったので、「
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