が殆《ほとん》ど大阪の松竹に属することになりました。その時分から米斎君は松竹に関係されることになって、どこの劇場でも新作が出れば米斎君のところへ持込むという風でした。何しろ松竹系といえば、帝劇を除いて東京の有名な劇場は皆そうなのですから、一時は米斎君も彼方此方《あっちこっち》の芝居を掛持で、随分お忙しかったようです。三越の方も大正五年頃に御引きになって、それからは何だか画家というよりも、舞台装置専門家のような形でした。
 ところが昭和二年頃から三年ばかり、強い神経衰弱で、その方の仕事を休んでおいででしたから、その間は已《や》むを得ず、外の人に頼んでいましたが、この三年ばかり此方《こっち》、また芝居の方を続けられることになって、現にこの二月の東劇に上演した私の『三井寺絵巻』なども、米斎君に御願いしました。米斎君としてはこれが最後だったわけで、先達《せんだって》も奥さんが御見えになった時、丁度私のものが最後になって、かなり久しい御馴染《おなじみ》でしたが、やはり御縁があったんでしょうと申上げたような次第です。
 今日ではいろいろな方が舞台装置をなさるようになりましたし、大正年代にも他の方がやって下すったこともありましたが、私どもが何時《いつ》も米斎君に御願いするのは、万事芝居に都合のいいように作って下さるからなのです。役者がしにくいような場合には、脚本をよく考えて下すって、――例えばある部屋が舞台になる場合、実際からいえばもっと狭かるべきはずであっても、ここは広く拵《こしら》えなければならぬとなるとチャンと芝居のしいいように斟酌《しんしゃく》して下さる。随分場合によると、部屋の中に甲冑を著て刀をさした人間が何人も出なければならぬこともありますから、立とうとする時に刀の鐺《こじり》で障子や壁を破るような虞《おそ》れがないでもない。また道具の飾り方によっては主要な人物が一方からは見えても、一方からは見えにくいというようなこともある。米斎君はそういう点によく注意して下すって、これはこうしては嘘ですが、芝居だからマアこうしておきましょうとか、ちょっと見た目がよくっても芝居がしにくいような道具じゃ困るとかいう風に、斟酌してやって下すったものです。
 役者の扮装や何かにしても同じ事で、考証して下さる方が何でも本当本当ということになると、芝居の方じゃ困る場合が出て来る。実際は短い筒ッ
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