九月四日
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)続々|仆《たお》れた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十三年九月)
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 久しぶりで麹町《こうじまち》元園町《もとぞのちょう》の旧宅地附近へ行って見た。九月四日、この朔日には震災一週年の握り飯を食わされたので、きょうは他の用達《ようた》しを兼ねてその焼跡を見て来たいような気になったのである。
 旧宅地の管理は同町内のO氏に依頼してあるので、去年以来わたしは滅多《めった》に見廻ったこともない。区劃整理はなかなか捗取《はかど》りそうもないので、わざわざ見廻りにゆく必要もないのである。それでも震災から満一ヵ年後の今日、その辺はどんなに変ったかという一種の興味に釣られて出てゆくと、麹町の電車通りはバラックながらも昔馴染の商店が建ちつづいている。多少は看板の変っているのもあるが、大抵は昔のままであるのも何となく嬉しかった。
 しかもわたしの旧宅地附近は元来が住宅区域であったので、再築に取りかかった家は甚だ少い。筋向いのT氏は震災後まだ一月を経ないうちに、手早くバラックを建築してしまったので、これは勿論そのままに残っている。北隣のK氏は先頃から改築に着手して、これももう大抵は出来あがっている。わたしの横町附近でわたしの眼に這入《はい》ったものはこの二つの建物だけで、他はすべて茫々たる草原であるから、番町までが一目に見渡される。誰も草採りをする者もないので、名も知れない雑草は往来のまん中にまで遠慮なくはびこって、僅かに細い通路を残しているばかりであるが、それも半分は草に埋められて、路《みち》があるかないか判らない。誰がどこの土を運んで来て、なんのために積んだのか捨てたのか知らないが、そこらにはかつて見たこともない小さい丘のようなものが幾ヵ所も作られて、そこにも雑草がおどろに乱れている。まったく文字通りに荒凉たるありさまで、さながら武蔵野の縮図を見せられたようにも感じられた。
 大かたこんなことであろうと予想してはいたものの、よくも思い切って荒れ果てたものである。夏草や兵者どもの夢の跡――わたしも芭蕉翁を気取って、しばらく黯然《あんぜん》たらざるを得なかった。まことに月並の感想であるが、この場合そう感じるのほかはなかったのである。
 隣にK氏の新しい建物が立っているので、わたしの旧宅地もすぐに見出されたが、さもなければ容易にその見当が付き兼ねて、路に迷った旅人のように、この草原のなかを空しくさまよっている事になったかも知れない。わたしは自分の脊よりも高い草をかき分けて、ともかくも旧宅のあとへ踏み込んでみると、平地であったはずのところがあるいは高く、あるいは低く、なんだか陥《おと》し穽《あな》でもありそうに思われて迂濶《うかつ》には歩かれない。わたしの庭に芒《すすき》などは一株も栽えていなかったのであるが、どこから種を吹き寄せて来たものか、高い芒がむやみに生いしげって、薄白い穂を真昼の風になびかせているのも寂しかった。虫もしきりに鳴いている。白い蝶や赤い蜻蛉もみだれ合って飛んでいる。わたしはここで十年のあいだに色々の原稿を書きつづけた。ここから母と甥との葬式を出した。そんなことをそれからそれへと考えると、まったく蕉翁のいわゆる「夢の跡」である。
 いたずらに感傷的の気分に浸っていても仕様がないので、うるさく附き纏って来る藪蚊を袖で払いながら、わたしは早々にここを立退《たちの》いた。K氏の普請場に家の人は見えなかったので、挨拶もせずに帰った。
 それからO氏の家をたずねて、玄関先で十五分ばかり話して別れた後、足ついでに近所を一巡すると、途中でいくたびか知人に出逢った。男もあれば、女もある。その懐しい人々の口からその後の出来事について色々の報告を聞かされたが、特にわたしを驚かしたのは、死んだ人の多いことであった。
 震災当時、麹町には殆《ほとん》ど数えるほどの死傷者もなかった。甲の主人、乙の細君、丙のおかみさん、その人々の死んだのは皆その以後のことである。勿論、死んだ人々は皆それそれの寿命であって、震災とは何の関係もないのであるかも知れないが、わずかに一年を過ぎないあいだにこうも続々|仆《たお》れたのは、やはりかの震災に何かの縁を引いているように思われてならない。その死因は脳充血とか心臓破裂とか急性腎臓炎とか大腸|加答児《カタル》とかいうような、急性の病気が多かったらしい。それには罹災《りさい》後のよんどころない不摂生もあろう。罹災後の重なる心労もあろう。罹災者はいずれもその肉体上に、精神上に、多少の打撃を蒙《こうむ》らない者はない。そ
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