銀座の朝
岡本綺堂

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)巻烟草《まきたばこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)紅白|瑠璃《るり》
−−

 夏の日の朝まだきに、瓜の皮、竹の皮、巻烟草《まきたばこ》の吸殻さては紙屑なんどの狼籍《ろうぜき》たるを踏みて、眠れる銀座の大通にたたずめば、ここが首府《みやこ》の中央かと疑わるるばかりに、一種荒凉の感を覚うれど、夜の衣《ころも》の次第にうすくかつ剥《は》げて、曙《あけぼの》の光の東より開くと共に、万物《ばんぶつ》皆生きて動き出ずるを見ん。
 車道と人道の境界《さかい》に垂れたる幾株の柳は、今や夢より醒めたらんように、吹くともなき風にゆらぎ初《そ》めて、凉しき暁の露をほろほろと、飜《こぼ》せば、その葉かげに瞬目《またたき》するかと見ゆる瓦斯灯《がすとう》の光の一つ消え、二つ消えてあさ霧絶え絶えの間《ひま》より人の顔おぼろに覗《のぞ》かるる頃となれば、派出所の前にいかめしく佇立《たたず》める、巡査の服の白きが先《ま》ず眼に立ちぬ。新ばしの袂《たもと》に夜あかしの車夫が、寝の足らぬ眼を擦《こす》りつ驚くばかりの大欠《おおあくび》して身を起せば、乞食か立ん坊かと見ゆる風体《ふうてい》怪しの男が、酔えるように踉蹌《よろめ》き来りて、わが足下《あしもと》に転がりたる西瓜《すいか》の皮をいくたびか見返りつつ行過ぎし後《のち》、とある小《お》ぐらき路次《ろじ》の奥より、紙屑籠背負いたる十二、三の小僧が鷹のようなる眼を光らせて衝《つ》と出《い》でぬ、罪のかげはこの児《こ》の上を掩《おお》えるように思われて、その行末の何とやらん心許《こころもと》なく物悲しく覚えらるるなり、早き牛乳配達と遅れたる新聞配達は、相前後して忙《せわ》しげに人道を行違う、時はいま午前三時。
 築地海岸にむかえる空は仄白《ほのしろ》く薄紅《うすあか》くなりて、服部の大時計の針が今や五時を指すと読まるる頃には、眠れる街も次第に醒めて、何処《いずく》ともなく聞ゆる人の声、物の音は朝の寂静《しずけさ》を破りて、商家の小僧が短夜《みじかよ》恨めしげに店の大戸がらがらと明《あく》れば、寝衣《ねまき》姿《すがた》媚《なまめ》きてしどけなき若き娘が今朝の早起を誇顔《ほこりがお》に、露ふくめる朝顔の鉢二つ三つ軒下に持出でて眼の醒むるばかりに咲揃いたる紅白|瑠璃《るり》の花を現《うつつ》ともなく見入れるさま、画に描《かか》ばやと思う図なり。あなたの二階の硝子窓《がらすまど》おのずから明るくなれば、青簾《あおすだれ》の波紋《なみ》うつ朝風に虫籠ゆらぎて、思い出したるように啼出《なきだ》す蟋蟀《きりぎりす》の一声、いずれも凉し。
 六時をすぎて七時となれば、見わたす街は再び昼の熱閙《ねつとう》と繁劇に復《かえ》りて、軒をつらねたる商家の店は都《すべ》て大道《だいどう》に向って開かれぬ。狼籍《ろうぜき》たりし竹の皮も紙屑も何時《いつ》の間にか掃《はき》去《さ》られて、水うちたる煉瓦の赤きが上に、青海波《せいかいは》を描きたる箒目《ほうきめ》の痕《あと》清く、店の日除《ひよけ》や、路ゆく人の浴衣《ゆかた》や、見るもの悉《ことごと》く白きが中へ、紅き石竹《せきちく》や紫の桔梗《ききょう》を一荷《いっか》に担《かた》げて売に来る、花売《はなうり》爺《おやじ》の笠の檐《のき》に旭日《あさひ》の光かがやきて、乾きもあえぬ花の露|鮮《あざ》やかに見らるるも嬉し。鉄道馬車は今より轟《とどろ》き初《そ》めて、朝詣《あさまいり》の美人を乗せたる人力車が斜めに線路を横ぎるも危うく、活《い》きたる小鰺《こあじ》うる魚商《さかなや》が盤台《はんだい》おもげに威勢よく走り来れば、月琴《げっきん》かかえたる法界節の二人|連《づれ》がきょうの収入《みいり》を占いつつ急ぎ来て、北へ往《ゆ》くも南へ向うも、朝の人は都《すべ》て希望と活気を帯びて動ける中に、小さき弁当箱携えて小走りに行く十七、八の娘、その風俗と色の蒼《あお》ざめたるとを見れば某《ある》活版所の女工なるべし、花は盛の今の年頃を日々の塵埃《ほこり》と煤《すす》にうずめて、あわれ彼女《かれ》はいかなる希望を持てる、老《おい》たる親を養わんとにや。わが嫁入の衣裳《いしょう》の料《しろ》を造らんとにや。
 八時をすぐれば街はいよいよ熱閙の巷《ちまた》となりて、田舎者を待って偽物《いかもの》を売る古道具商《ふるどうぐや》、女客を招いて恋を占う売卜者《ばいぼくしゃ》、小児《こども》を呼ぶ金魚商《きんぎょや》、労働者を迎うる氷水商《こおりみずや》、おもいおもいに露店を列《なら》べて賑《にぎ》わしく、生活のために社会と戦う人の右へ走り左へ馳《は》せて、さなきだに熱き日のいよいよ熱く苦しく覚うる頃とな
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング