近松半二の死
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)近松半二《ちかまつはんじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近松|門左衞門《もんざゑもん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)扨《さ》て/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 登場人物

近松半二《ちかまつはんじ》
竹本染太夫《たけもとそめだいふ》
鶴澤吉治
竹本座の手代《てだい》 庄吉
祇園町《ぎをんまち》の娘 お作
女中 おきよ
醫者
供の男

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天明《てんめい》三年、二月下旬の午後。
京《きやう》の山科《やましな》、近松半二の家。さのみ廣からねど、風雅なる家の作りにて、上《かみ》の方《かた》に床の間、それに近松|門左衞門《もんざゑもん》の畫像の一軸をかけてあり。つゞいて違ひ棚、上には古き雛人形をかざり、下には淨瑠璃本その他を乘せてあり。下《しも》のかたには出入りの襖《ふすま》あり。中央のよきところに半二の病床のある心にて、屏風を立てまはしてあり。上のかたは廻り縁にてあとへ下げて障子をしめたる小座敷あり。庭の上のかたは一面の竹藪。縁に近きところに木ぶりの好き櫻ありて、花は疎《まば》らに咲きかゝりゐる。下のかたには出入り口の低き枝折戸《しをりど》あり。枝折戸の外は、上の方より下の方へかけて小さき流れありて、一二枚の板をわたし、芽出し柳の立木あり。薄く水の音。鶯の聲きこゆ。
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(下の方よりは板橋をわたりて、醫者が供の男を連れて出づ。)
[#ここで字下げ終わり]
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供の男 (枝折戸の外にて呼ぶ)頼まう。
おきよ はい、はい。
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(奧の襖をあけて、女中おきよ出で、すぐに庭に降りて枝折戸をあけ、醫者を見て會釋《ゑしやく》する。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
醫者 御病人はどうだな。
おきよ けふもやはり机に向つてゐられます。
醫者 けふも机に……。(顏をしかめる)扨《さ》て/\不養生なお人だ。兎もかくもお見舞申さう。(内に入る)
おきよ (屏風の外にて)お醫者樣がおいでなされました。
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(半二はだまつてゐる。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
おきよ もし、お醫者樣のお見舞でござります。
半二 (うるささうに)今はすこし忙がしいところだ。又お出で下さいと云つてくれ。
醫者 はゝ、相變らず我儘な病人だ。(おきよに)まあ、屏風をあけなさい。
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(おきよは屏風をあけると、近松半二、五十九歳、寢床の上に坐りて机にむかひ、病中ながら淨瑠璃をかきつゞけてゐる。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
醫者 あいにくお天氣はすこし曇つたが、陽氣は大分春めいて來ましたな。
半二 (よんどころなく筆を措《お》く)二月ももう末になりましたから一日増しに春めいて來るやうです。
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(おきよは奧に入る。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
醫者 今年はいつもよりも餘寒が長かつたから、急に又、暖かになるかも知れません。(云ひながら半二の顏を見る)そこで、どうです。ちつとは良いやうですな。
半二 (笑ふ)良いか惡いか自分にも判りませんが、なにしろ書きかけてゐる物が氣になるので、けふも朝から起きてゐました。
醫者 それがどうも宜《よろ》しくない。この間からもたび/\云ふ通りここ十日か半月が大事の所だから、なるべく無理をしないで下さい。去年の秋頃からお前さんのからだは餘ほど弱つてゐるところへ、今年の餘寒が身に堪《こた》へたのだから、だん/\に時候が好くなつて、花でも咲くやうになれば、自然に癒る。(笑ひながら)それまではまあ醫者の云ふことを肯《き》いて、おとなしく寢てゐて下さらなければ困るな。
半二 おとなしくしてゐれば癒りませうか。
醫者 癒る、癒る。きつと癒ります。
半二 わたしも癒りたいのは山々だが……。それがどうもむづかしさうに思はれるので、せめて書きかけてゐる物だけをしまひまで仕上げて置きたいと、かうして床の上に起きてゐるのですから、我儘な奴だと叱らないで下さい。
醫者 どうも困るな、まあ、まあ、お脈を拜見。
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(半二は澁々ながらに手を出せば、醫者は脈をみる。お
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