きよは銅盥と手拭を持つて出で、醫者のそばに置きて奧に入る。鶯の聲。)
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半二 どうです。きのふよりも惡くなりましたか。
醫者 さあ。(躊躇して)別に惡くなつたと云ふ程でもないが、なにしろ病人が床の上に起き直つて、よるも晝も書きづめでは、耆婆扁鵲《きばへんじやく》も匙を投げなければならない。お前さんは操《あやつ》りの爲には無くてならない大事のお人だ。せい/″\養生をして早く癒つて面白いものを見せて下さい。
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(醫者は手を洗つてゐると、おきよは奧より茶を持つて出づ。)
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醫者 いや、もうお構ひなさるな。くどいやうだが、半二どの。十日の辛抱が出來なければ、せめて三日か五日のあひだは、仕事を休んで寢てゐて下さい。かならず無理をしてはなりませんぞ。
半二 (うるさゝうに)はい、はい。
醫者 では、どうぞお大事に……。
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(醫者はおきよに送られて、供の男と共に枝折戸の外へ出づ。半二はすぐに机の方へむき直りて筆を執《と》る。おきよは銅盥と手拭を持ちて奧に入る。)
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供の男 これからどちらへ參ります。
醫者 やはり昨日の通りだ。
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(二人は向うへ行きかゝる時、下のかたよりお作、十八九歳、祇園町の揚屋《あげや》の娘、派手なこしらへにて、手に桃の花を持ちて出づ。)
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お作 (呼びとめる)もし、もし……。
醫者 (みかへる)おゝ、お作どのか。
お作 (進みよる)早速でござりますが……。(内を窺《うかゞ》ひて)病人の容態は如何《いかゞ》でござりませうか。
醫者 (嘆息して)お氣の毒だが、どうも宜しくない。
お作 (愁はしげに)惡うござりますか。
醫者 一日ましに惡くなるばかりだ。あれほどの大病人が起きてゐては、どうにもしやうがない。あんな無理をしてゐては、所詮長くは持つまいと思はれる。
お作 さうでござりませうな。
醫者 今殺すのは惜しい人だから、わたしも色々心配してゐるのだが。なにしろ強情だからな。まま、お前からもよく意見をして下さい。
お作 はい。
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(醫者は供の男と共に向うへ去る。お作はそのあとを見送り、更に枝折戸の外より内をうかゞふ。鶯の聲。)
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お作 御免下さりませ。
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(半二は見返らず、一心に書きつづけてゐる。)
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お作 (再び呼ぶ)御免くださりませ。
おきよ (奧より出づ)おゝ、お出でなされましたか。どうぞこちらへ……。 
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(お作は内に入る。)
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おきよ (半二に)お作さんがお出でなされました。
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(半二はやはり默つてゐる。お作は打つちやつて置けと眼で知らすれば、おきよはそこにある茶碗を片附けて奧に入る。お作は無言にて持參の桃の花を床の間に生ける。)
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半二 (初めて氣がつく)おゝ、お作どの……いつの間にか來てゐたな。
お作 御氣分は如何でござります。
半二 どうも良くないやうだ。いや、良くないのが本當らしい。(床の間をみる)桃の花を持つて來てくれたか。おゝ、見事に咲いてゐる。(違ひ棚を指す)やがて三月の節句が來るので、子供のない家でも雛を飾つた。
お作 (雛を見る)よほど古いお雛樣のやうでござりますな。
半二 それは十二三年前に染太夫から貰つたのだが……。いや、それで可笑《をか》しい話がある。染太夫がその雛人形をくれると、それから間もなく私が「妹脊山《いもせやま》」を書いて、染太夫は春太夫と掛合ひで三の切《きり》の吉野川を語ることになつた。妹脊山の屋形《やかた》は三月の雛祭で雛鳥が人形の首を打ち落す。その本讀みが濟むと、染太夫め、わたしの傍へ來て、にや/\笑ひながら、先生、わたしが雛人形を差上げたばつかりに、飛んだ御返禮を頂戴しました。これは實にむづかしい語り場ですと、頻《しき》りに頭をおさへてゐたよ。はゝゝはゝゝ。
お作 あの「妹脊山」の淨瑠璃は近年の大當りであつたと、わたしも子供のときから聽いて居りました。去年も竹田の芝居で「妹脊山」が又出るといふので、わざ/\大阪まで見物にまゐりましたが、今度もやはり大層な評判でござりました。
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