り》」と「加々見山《かゞみやま》」でござりました。何分にも「新薄雪」は蒸返し物の上に、「加々見山」は江戸仕込みで、上方《かみがた》の人氣にしつくりと合はぬところがござりましたせゐか、どうも思はしくござりませんでした。
染太夫 氣の毒にも座元はかなりの痛手を負つて、その跡始末に困つてゐるやうに見受けられるが……。
庄吉 お察しの通りで、唯今使を出して遣つたのも、その金策の件でござります。
吉治 さなきだに景氣の引き立たないところへ、又ぞろ座元に痛手を負はせてまつたく氣の毒だ。
染太夫 わたし等もかゝり合ひだから、なんとか景氣を盛返してみせたいと、色々に燥つてはゐるものゝ、何分にも歌舞伎といふ大敵に蹴壓されて、殘念ながらどうにもならない。まつたく平家の壇の浦だ。
半二 (ため息をつく)その壇の浦はわたしもよく知つてゐる。(更にため息をつく)この正月もやはり不入りであつたか。
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(奧よりお作とおきよは茶碗と菓子鉢を運び出で、人々に茶をすすめる。)
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お作 ほかに御用はござりませんか。
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(半二はうなづく。女二人は奧に入る。染太夫等はしばらく默つて茶をのんでゐる。鶯の聲。)
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染太夫 おゝ、鶯が鳴く。こゝらは矢はり閑靜でいゝな。大阪のやうな土地に住んでゐると、なんだか苛々《いら/\》して氣が落ちつかない。いつそ太夫の商賣をやめて、かういふ靜なところに隱居するかな。
吉治 その苛々するといふのも、操りの衰微をあまりに苦に病むからのことだ。藝人は藝に遊ぶといふ心持を忘れてはならない。勿論興行の入り不入りを何うでも構はないと云ふのではないが、けふは今日に生き、明日は、あしたに生きて、自分の藝を樂しんでゐれば好いのだ。
染太夫 おまへの悟りにはいつも感心させられるが、この年になつても私には、どうもその悟りが開けないのだ。
庄吉 悟りが開けても開けないでも、太夫さんが商賣をやめるなどは大禁物で、この上にもせい/″\働いて貰はなければなりません。それから今のお話でございますが、もうかうなるとどうしても、先生にお縋り申すほかはござりません。就きましては舊冬からお願い申して置きました伊賀《いが》の仇討でござりますが……。(云ひにくさうに又あたまを掻く)御病氣中おせき立て申すのは餘りに心ないやうで、なんとも申兼ねる次第でござりますが……。(あとを云ひ兼ねて又躊躇してゐる)
染太夫 御病氣を知りながら、押して無理を願ふのは餘りに勝手過ぎるやうだとわたし等も一應は止めてみたが、何分にも座元の方では必死の場合で、今度は是非とも先生の新淨瑠璃を出したい。さもなければ次興行の蓋をあける見込みが立たないと云ふのでな。
吉治 庄吉殿ひとりでは何うも行きにくいとか、云ひ辛いとか云ふのでわたし等もよんどころなく連れ出されて、お見舞ながらお頼みに出たわけですが……。この御樣子ではなあ。(染太夫と顏をみあはせる)
半二 (興奮して)いや、さう聞けば猶さら書かなければなりません。あの淨瑠璃は去年の暮に六つ目までの草稿をお渡し申して、正月中には殘らず書き上げてしまふ筈のところを、この通りの始末でだん/\におくれました。かうしてゐても、そればかりが氣になるので、醫者から叱られるのも構はずに、枕元に机を控へて、どうやら七つ目と八つ目を書いてしまひましたよ。
庄吉 (乘り出して机の上を覗く)では、もう七つ目と八つ目が出來ましたか。
半二 まだ清書は出來ないが、けふの午頃までに八つ目の草稿は出來上つた。(笑ひながら)八つ目は岡崎の段で、政右衞門の人形を手一杯に働かせなければならない。それだけに、ちつと手堪へのある場であつたが、先づ思ひ通りに書けたらしい。その次は伏見《ふしみ》の宿屋と大詰《おほづめ》の仇討……。それで十段物がとゞこほりなく纒《まと》まるのだ。
庄吉 (手をついて)ありがたうござります。有難うござります。天を拜し地を拜しとは全くこの事で、わたくしも先づほつといたしました。座元も定めて大喜びでござりませう。歸りましたら早速に、表看板だけでも揚げて置いて、前景氣を附けたいと存じますが、その外題《げだい》はどういふことに決まりました。
半二 外題は……。「伊賀越道中雙六《いがごえだうちゆうすごろく》」はどうだな。
庄吉 「伊賀越道中雙六」……。なるほど、それは結構でござりませう。
染太夫 むゝ。道中雙六は面白いな。
吉治 面白い、面白い。七つ目からの先は知りませんが、六つ目まででも確に近來の當り作だと、本讀みを聽いた者がみな感心してゐました。
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(半二はだまつて笑つてゐる。)
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