半二 さうは云つても書きおろしの時にくらべると、半分も日數が打てない。わづか十二三年の違ひだが、操りが一年ごとに廢《すた》れて來るのがあり/\と眼に見える。いつも云ふやうだが……。(床の間の畫像をみかへる)門左衞門先生が御在世の時は勿論、又そのあとを受け繼いで出雲《いづも》や松洛《しようらく》が「忠臣藏《ちゆうしんぐら》」や「菅原《すがはら》」をかいた頃は、操りは繁昌の絶頂であつた。(その當時を追想するやうに、はれやかな眼をする)大阪中の贔屓《ひいき》や盛り場から贈つて來るので、芝居の前に幟《のぼり》は林のやうに立つてゐる、積み物は山のやうに飾つてある。見物は近郷近在からも夜の明けないうちに押掛けて來る。道頓堀《だうとんぼり》の人氣はみな操りにあつまつて、歌舞伎は有れども無きが如しと云ふ有樣……。(又俄に嘆息する)それがどうだ。此頃ではまるで裏表《うらはら》になつてしまつて、歌舞伎は一年ましに繁昌して、操りは有れども無きが如くではないか。それを思へば、出雲は好いときに死んだ。松洛は長生きをして「妹脊山」をかく頃までは私の後見をしてくれたが、それも既うこの世にはゐない。いや、そんな愚癡《ぐち》を云つても始まらない。自分ひとりの力でも歌舞伎の奴等を蹴散らして再びあやつりの全盛時代にひき戻さなければならないと、わたしも一生懸命に働いた。まつたく根かぎりに働いた。あらん限りの智慧を絞つて働いた。壇の浦の知盛《とももり》や教經《のりつね》のやうな心持で大童《おほわらは》になつて戰つた。
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(云ひかけて半二は咳き入る。お作は立寄つて脊を撫でさする。)
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半二 この机は……。この机は門左衞門先生が形見のお机だ。先生はこの机で「國姓爺《こくせんや》」も書けば「天網島《てんのあみじま》」も書き、「博多小女郎《はかたこぢよらう》」も書かれたのだ。わしが讓り受けてからも三十三年になる。先生があやつり芝居を興して、その弟子のわたしが操り芝居を滅亡させては、先生に對しても申譯がない。朝に晩にその畫像を拜むたびに、あんなに柔和な先生の顏がなんだか怖ろしいやうに思はれてならない。あの優しい眼がわたしを睨んでゐるやうにも見える。(又咳き入る)
お作 御病氣のなかで、そのやうに氣をお揉みなされては惡うござり
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