しまった。大殿《おおとの》にはそれを聞こしめされて、この古屋敷は変化《へんげ》の住み家《か》とみゆるぞ、とく狩り出せよとの下知にまかせて、われわれ一同が松明《たいまつ》振り照らして、床下から庭の隅《すみ》ずみまで隈なくあさり尽くしたが、鼬《いたち》一匹の影すらも見付からなんだ。思えば不思議なことよのう。気の弱い侍女どもばかりでなく、衣笠どのの眼にまでも、ありありと見えたとあるからは、臆病者のうろたえた空目《そらめ》とばかりも言われまいよ」
 夢のような心持で、千枝太郎はこの話を聴いていると、小源二はまた言った。
「就いては大殿のお使いで、おれはけさ早う土御門《つちみかど》へ行って、安倍泰親殿の屋敷をたずねた」
「おお、土御門へ行かれたか。して、播磨守殿はなんと占《うらな》われた」と、千枝太郎は訊いた。
「播磨守殿は慎みの折柄《おりから》じゃとて、直きじきの対面はかなわなんだが、弟子の取次ぎでこれだけのことを教えてくれた。御息女には怪異《あやかし》がついている。三七日《さんしちにち》のあいだは外出は勿論、何者にも御対面無用とのことじゃ。右様《みぎよう》の次第じゃで、見識らぬ者どもは当分御門内へ入るるなと大殿からも申し渡された。気の毒じゃが、そちも当分は出入りするな」
 千枝太郎は失望した。さりとて何を争うことも出来ないので、すごすごと別れてここを立ち去ると、青糸毛の牛車《ぎっしゃ》がこの屋敷の門前をしずかに軋《きし》らせて通った。彼がそれとすれ違ったときに、物見のすだれが少し掲げられて、女の白い顔がちらりと見えた。その顔が玉藻であるらしく思われたので、千枝太郎はひと足戻って覗こうとする途端に、すだれは音もなしにおろされてしまった。
 強い妬みに燃えているような女の物凄い眼の光りだけが、千枝太郎の記憶に残った。

    二

 小源二から聴かされた不思議な話を、千枝太郎は途《みち》みち考えながら歩いた。衣笠に逢えなかったという失望もあった。その怪しい上臈が何者であろうかという疑いもあった。疑いはまずかの玉藻の上に置かれた。
 三浦の門前で出逢った牛車《ぎっしゃ》のぬしは、どうも玉藻であるらしく思われた。たとい玉藻であるとしても、往来で人に逢うのは不思議でない。しかしそれが偶然のめぐりあいではないように千枝太郎には疑われた。その疑いをだんだん押し拡げていくと、ゆうべ衣笠をおびやかした怪しい上臈も、もしや玉藻ではないかという結論に到着した。
 それにしても、玉藻はなぜ三浦の娘をおびやかそうとしたのか。しかも小源二の物語から想像すると、彼女の振舞いはどうしても尋常《ただ》の人間ではないらしい。彼はさきの夜、犬の群れに取り囲まれた時の玉藻のおそろしい顔を思い出した。きのうの朝、陶器師の翁から聴かされた古塚参詣の怪しい女の姿を思い泛《う》かべた。これらの事実を綜合してかんがえると、かの古塚のあたりにさまよっている女も、三浦の屋敷に入り込んだ女も、すべて玉藻ではあるまいかとも思われた。彼はその実否《じっぷ》を確かめるために、今夜こそは小町の水の近所へ忍んで、怪しい光りを放っていく女の正体を見定めようと決心した。
 きょうも思わしいあきないもなしに、彼はいつもより早く帰った。そうして、夜の更けるのを待って、かの古い塚をつつんだ大きい杉の森の近所へ忍んで行った。雨気を含んだ暗い夜で、低い空の闇を破って啼いていく五位鷺《ごいさぎ》の声がどこやらで聞こえた。彼はふた※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、208−2]《とき》ほどもそこに立ち迷って、自分の眼をさえぎる何物かのあらわれるのを待っていたが、その夜はなんの獲物《えもの》もなしに帰った。
 あくる日、彼はかさねて京へ出て、三浦の屋敷の門前に立った。衣笠がその後の様子を知りたいので、彼は根《こん》よく門前にさまよっていると、顔を知っている家来の一人が出て来た。よび止めてそっと訊くと、その後には何の怪異《あやかし》もない。衣笠も無事である。三浦介はそのあやかしを鎮めるために蟇目《ひきめ》の法を行なっているとのことであった。それを聞いて千枝太郎はすこし安心したが、衣笠に逢えないで帰るのがやはり心さびしかった。彼は何物にか引き止められるような心持で、門前に暫くたたずんでいた。
 思い切ってそこを立ち去った彼は、さらに土御門の方角へ足を向けた。きのうの小源二の話で、師の泰親の無事であることが判ると共に、彼は俄に師匠がなつかしくなって、直きじきの対面は許されずとも、せめてよそながら屋敷の姿を窺って来たいと思い立ったのである。彼は屋敷の前に近づいて、忍ぶように内を覗くと、軒に張り渡された注連縄《しめなわ》が秋風に寂しくゆらいで、見おぼえのある大きい桐の葉が蝕《むし》ばんだように枯れて乾いて、折りおりにかさこそ[#「かさこそ」に傍点]と鳴っていた。それを仰いでいるうちに、言い知れない悲しさと懐かしさとが胸いっぱいになって、彼の眼はおのずとうるんできた。彼は思わず土にひざまずいて、よそながら師匠に無沙汰の罪を詫びていると、その頭の上で不意に彼の名を呼ぶ者があった。おどろいて振り仰ぐと、それは兄弟子の泰忠《やすただ》であった。
「お身がもとの烏帽子折りになったということは、よそながら聴いていた。どうじゃ、変わることはないか」
 久し振りで兄弟子の優しい声を聴いて、千枝太郎はいよいよ悲しくなった。彼はにじみ出す涙を両袖で拭きながら答えた。
「お身も変わることが無うて何よりじゃ。御勘当の身では何をすべきようもないので、よんどころなしに旧《もと》のなりわい、むかしの朋輩《ほうばい》に顔を見らるるも恥ずかしい。して、お師匠さまはどうしてござる」
「その後も悪魔の調伏に心を砕《くだ》いて、夜も碌々にお眠りなさらぬ」と、泰忠も声をくもらせて言った。「それに付けても口惜しいのは、悪魔のいよいよはびこることじゃ。お身はまだ知らぬか、玉藻はいよいよ采女《うねめ》に召さるるというぞ」
 さきごろ関白忠通から正式に玉藻を采女に推薦した。それに対して、頼長は相変わらず強硬に反対したが、忠通は頑として肯《き》かなかった。何分にもこの前とは違って玉藻は雨乞いの奇特《きどく》を世に示して、その名はもう雲の上までも聞こえている。相手にはそういう強味がある上に、頼長が唯一《ゆいいつ》の味方と頼む信西入道がなぜか今度は不得要領で、木にも付かず草にも付かぬというあいまいの態度を取っているので、味方はいよいよ影が薄い。蔭では兄の文弱を日ごろ罵り卑しめている頼長も、さすがに殿上で顔を向き合わせては、有る甲斐なしに兄を言い破るわけにもいかない。もうひとつには、玉藻の三井寺詣でを待ち受けて、遠矢に掛けようとした事も忠通に知られている。そういう事情がいろいろからんでいるので、彼は肚《はら》の中では苛《いら》いらしながらも、正面の論戦ではどうも思うように闘うことが出来ない。かたがた殿上の形勢は相手方の勝利にかたむいて、玉藻はいよいよ采女に召さるることに決まるらしいと、泰忠は残念そうに話した。
「もうこの上はお師匠さまの力一つじゃと、左大臣どのも仰せらるる。お師匠さまも昼夜の祈祷に、やがて精も根も尽き果てらりょうかと案じらるるほどじゃ。我らとても同様の苦労、察しておくりゃれ」と、泰忠は蒼ざめた唇をゆがめながら言った。
「そりゃ容易ならぬことじゃ」と、千枝太郎もはらわたから絞り出すような溜息をついた。「それに就いてわしも思い当たることがある。子細はこうじゃ」
 彼は兄弟子の耳に口をよせて、かの古塚のことや三浦の屋敷のことをささやくと、泰忠は眼をみはりながら聴いていた。
「むむ、よいことを教えてくれた。三浦のことはお師匠さまもわれわれも承知じゃが、古塚の怪異《あやかし》はまだ聞かぬ。よい、よい、きっとお師匠さまに申し上ぐる。お身もこれを功に御勘当が赦《ゆる》さりょうも知れぬ。この上にも心をつけて働いておくりゃれ。頼んだぞ」
 兄弟子から鋭《するど》く励まされて、千枝太郎のしおれた魂も俄に勇んだ。彼はきっとその怪異を探り出すことを泰忠に誓って別れた。彼はもう悠々と京の町などをうろついてはいられないので、山科の家へ急いで帰った。
「きょうもくたびれ儲けか」と、なんにも知らない叔母は笑っていた。「したが、そのうちにはおのずとなりわいの道も覚えて来る。必ず倦きてはならぬぞよ」
 気のよい叔母は彼の不働きを責めようともしないので、千枝太郎は幾らか気安く思った。そうして今夜こそは自分の務めを果たさなければならないと、張りつめた心を抱えて夜の更《ふ》けるのを待っていたが、どうも落ち着いてはいられないので、彼はゆうべよりも早く家を出て、陶器師の翁をたずねた。
「翁《おきな》よ。少し頼みがある。わしを小町の水の森へ案内してくれぬか。身内から光りを放った女が通り過ぎたというのはどのあたりか、案内して教えてくれ」
 途方もないと言うように、翁はしばらく黙って相手の顔を見つめていたが、やがて思い出したようにその手をゆるく振った。
「ならぬことじゃ。くどくもいう通り、塚の祟りがおそろしいとは思わぬか」
「いや、それを見とどけたらわしも出世する。翁にも莫大の御褒美を貰うてやる。どうじゃ、それでも頼まれてくれぬか」
「はて、出世も御褒美も命があっての上のことじゃ。ましてわしも人づてに聞いたばかりで、詳しいことはなんにも知らねば、いくら頼まれてもその案内が出来ようぞ。どんな出世になるか知らぬが、お身もやめい。あのような所へは行くものではないぞ」
 いくら強請《せが》んでも動きそうもないので、千枝太郎もあきらめてそこを出た。今夜は薄い月が行く手を照らして、もう木枯らしとでもいいそうな寒い風が時どきに木の葉を吹きまいて通った。千枝太郎はその風にさからって森の方へ急いで行った。大きい杉のかげに身を寄せて、彼はゆうべと同じようにふた※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、212−5]《とき》ほども待ち暮らしたが、折りおりに落葉のころげてゆく音ばかりで、土の上には犬一匹も通らなかった。
「今夜も無駄か」
 彼は失望してもう引っ返そうかと思っている時に、京の方角から牛車の軋《きし》る音がぎいぎいと遠くきこえた。木蔭からそっと首をのばして窺うと、牛飼いもない一|輌《りょう》の大きい車が牛のひくままにこちらへ徐《しず》かにきしって来た。薄い月は高い車蓋《やかた》を斜めにぼんやりと照らしているばかりで、低く這って来る牛の影も、月に背いた車の片側も、遠くからはっきりとは見えないので、さながら牛のない片輪車が自然に揺らめいて来るかとも怪しまれた。千枝太郎は身を固くして、この怪しい車の音に耳を澄ましていた。
 車はだんだんに近づいて、棟の金物《かなもの》の薄くきらめくのも見えるほどになった時に、もう待ち切れなくなった千枝太郎は木のうしろから衝《つ》とあらわれて、覚束ない月の光りでその車の正体を見届けようとすると、不思議に車の轅《ながえ》は向きをかえた。かれを追う牛飼いもないのに、牛はおとなしく向き直って、元来た京の方へのろのろと歩んで行くのであった。千枝太郎はおどろいた。驚くと共に彼の疑いはいよいよ募って、なんの分別もなしに車のあとを追った。歩みの遅い牛の尻へ彼はすぐに追い付いて、右の轅に取り付きながら前すだれを無遠慮にさっと引きめくると、薄い月は車のなかへ夢のように流れ込んで、床《とこ》にすわっている女の顔を微かに照らした。
 その顔をひと目見て千枝太郎は立ちすくんだ。車のぬしは三浦の孫娘の衣笠であった。衣笠が今頃ただ一人でどうしてこんな所へ来たのか。千枝太郎は自分の眼を疑うように、呆れてしばらく眺めていると、すだれはおのずからさらりと落ちて、車は再びゆるぎ出した。
「わらわに恋するなど及ばぬことじゃ。思い切れ。思い切らぬと命がないぞ」
 すだれのなかでは朗《ほがら》かな声で言った。

    三

 なんの祈願《ねがい》か、なんの呪詛《のろい》か。殊に外出を封じられている衣笠が、この夜ふ
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