、彼は師匠の勘当をゆるされようと考えたのであった。
翁との話はここらで打ち切って、千枝太郎は早々にここを出た。出る時に、彼は再び隣りの柿の梢をみあげると、その高い枝は青い大空を支えているように大きく拡がって、ところどころにはもう薄紅い光沢《つや》をもった木の実が大きい鈴のように生《な》っていた。幼い藻の顔と臈たけた玉藻の顔とが一つになって、彼の眼さきを稲妻のようにひらめいて通った。
「あきないが遅うなる」
千枝太郎は京の方角へ足を向けた。
むかしの相弟子や知りびとに顔をあわせるのがさすがに辛《つら》いので、彼はこれまで京の町へは商売《あきない》に出なかったが、商売はどうでも京の町にかぎると叔父からも教えられ、自分もそう覚《さと》ったので、きょうは思い切って繁華な町の方へ急いで行った。その目算は案外に狂って、顔馴染みのない若い職人をどこでも呼び込んでくれないので、彼はひどく失望した。一日根気よく呼びあるいても、彼は京の町で一文も稼ぐことは出来なかった。
九月はじめの秋の日は吹き消すようにあわただしく暮れかかって、うすら寒い西山おろしが麻の帷子《かたびら》にそよそよと沁みて来たので、千枝太郎はいよいよ心寂しくなった。こうと知ったら京の町まちへ恥がましい顔をさらして歩くのではなかったものをと悔やみながら、疲れた足を引き摺ってとぼとぼと戻ろうとすると、六条の橋の袂で呼び止められた。
「烏帽子折りか。頼みたい」
振り返ると、それはもう六十に近い、人品のよい武士で、引立《ひきたて》烏帽子をかぶって、萌黄と茶との片身替わりの直垂《ひたたれ》を着て、長い太刀を佩《は》いていた。彼は白い口髯の下から坂東声《ばんどうごえ》で言った。
「それがしはこのごろ上《のぼ》った者じゃで、都の案内はよう存ぜぬが、見るところ烏帽子折りであろう。頼まれてくれぬか」
「心得ました」
そこですぐに荷をおろすと、武士は一人の家来を見かえって、その烏帽子が折れたら受け取って来いと言い付けて、自分はそのままに行き過ぎてしまった。
「手もとは暗うはないかな」と、あとに残された家来は千枝太郎の手もとを覗きながら言った。
「いえ、烏帽子一つ折るほどの間《ひま》はござりましょう」と、千枝太郎は手を働かせながら答えた。
「して、お前さま方は坂東の衆でござりまするか」
「おお、相模《さがみ》の者じゃよ」と、家来は立ちはだかったままで誇るように言った。「それがしの御主人は三浦介《みうらのすけ》殿じゃ」
「三浦介殿……。では衣笠《きぬがさ》の三浦介殿でござりますな」
「よう存じておる。唯今まいられたのがその三浦介殿じゃ」
烏帽子のあつらえ手は相州《そうしゅう》衣笠の城主で三浦介源|義明《よしあきら》であることを家来は説明した。三浦介は上総介《かずさのすけ》平広常と共に京都の守護として、このごろ坂東から召しのぼられたのであった。
「そのような武将の冠《かぶ》り物を折りまするは、わたくしの職の誉《ほま》れでござりまする」と、千枝太郎は追従《ついしょう》でもないらしく言った。
「そう存じたら、念を入れて仕まつれ」と、家来は直垂《ひたたれ》の袖で鼻をこすった。
坂東武者も初の上洛に錦を飾って来たとみえて、その直垂には藍の匂いがまだ新しいようであった。
三浦《みうら》の娘《むすめ》
一
そのときに三浦の家来はこういうことをも自慢そうに話した。
主人三浦介の孫娘に衣笠《きぬがさ》というのがある。自分の代々住んでいる城の名を呼ばせるくらいであるから、その寵愛はいうまでもない。ことし十六で相模一国にならぶかたもない美女である。祖父の義明がこのたびの上洛について、可愛い孫娘にも一度は都の手振りをみせて置きたいという慈愛から、遠い旅をさせて一緒に連れて来たが、なるほど花の都にもあれほどの美女は少ない。自分も主人の供をして、毎日洛中洛外を見物してあるいているが、衣笠殿ほどの美しい女子《おなご》に殆んど出逢ったことがない。当時都で噂の高い玉藻の御《ご》というのはどんな人か知らないが、おそらくそれにも劣るまいとのことであった。
田舎侍の主人自慢はめずらしくない。しかしその話を半分に聴いても、三浦の孫娘がすぐれた美女であるらしいことは千枝太郎にも想像された。年の若い烏帽子折りはその美しい相模おんなを一度見たいような浮かれ心にもなった。
「三浦殿の御家来衆は大勢《おおぜい》でござりまするか」と、彼は訊いた。
「上下二十人で、ほかに衣笠殿と附き添いの侍女《こしもと》が二人じゃ」
「二十人の御家来衆とあれば、烏帽子の御用もござりましょう。して、お宿は……」
「七条じゃ。時どきに来て見やれ」
「その折りにはよろしく願いまする」
千枝太郎は彼と約束して別れた。家へ帰ってきょうの話をすると、あきないに馴れた叔父の大六は言った。
「そりゃ誰とても同じことで、顔馴染みのうすいあいだは商売も薄いものじゃ。これを飽きずに堪えねば、職人も商人《あきうど》も世は渡られぬ。まして三浦介殿が家来の衆と顔馴染みになったは仕合わせじゃ。坂東の衆は気前がよい。ぬけ目なくその宿所へ立ち廻って、ひとかどの得意先きにせねばならぬぞ」
古塚のことも気にかかりながら、きょうは京じゅうを一日あるき廻って、千枝太郎もさすがに疲れたので、そのまま寝てしまった。あくる日は早く起きて京の町へ出た。
七条へ行って、三浦の宿所を探していると、きのうの家来に丁度出逢った。家来はきのうと違った直垂を着ていた。千枝太郎は馴れなれしく話しかけて、彼の名が小源二《こげんじ》ということまでも聞いてしまった。
「失礼ながら、お前は服装《みなり》に似合わぬ、烏帽子の折りざまが田舎びているような。わたくしが都風に折って進ぜましょう」
彼は新しい烏帽子を折ってやった。そうして、その価《あたい》を受け取らなかった。その代りにお前の宿へ案内して、ほかの人たちの仕事を頼まれるように口添えをしてくれと相談すると、小源二はこころよく受け合った。
「では、一緒に来やれ。屋敷はすぐそこじゃ」
誰やらの空き屋敷を仮りの宿所にあてているらしく、構えの大きい割には屋敷の内もひどく荒れて、うす暗い庭には秋草がおどろに乱れてそよいでいた。遠侍《とおざむらい》らしいところに、七、八人の家来が武者あぐらを掻いていた。小源二は千枝太郎を彼らに引き合わせて、再び表へ出て行った。
主人は留守で、用のない家来どもは退屈しているらしく、千枝太郎を相手にして京の名所や風俗の噂などを聴いた。そのなかには烏帽子をあつらえる者もあった。千枝太郎は仕事をしながら一生懸命に彼らの機嫌を取っていると、正直な坂東の男どもは馴染みのうすい烏帽子折りをひどく信用してしまって、何もかも打ち明けて話した。そのうちに衣笠の噂も出た。
「その娘御《むすめご》は世に美しいお方じゃそうに承りました。きょうもお宿でござりまするか」と、千枝太郎は訊いた。
「おお、奥にござるよ」と、一人が言った。「どうじゃ、そちも奥へまいってお目見得せぬか。女儀《にょぎ》のことじゃで毎日出歩きもならぬ。さりとて初めてのお上《のぼ》りじゃで別に親しい友達もない。侍女《こしもと》どもばかりを相手にして、毎日退屈そうに送っていらるるは見るも気の毒じゃ。そちが参って都のめずらしいお話などお聞かせ申したらお慰みにもなろうに……」
それは千枝太郎が待ち設《もう》けているところであったので、彼は是非お目通りが願いたいと頼むと、家来の一人は奥へ立って行ったが、やがて一人の侍女らしい女を連れて来て、彼女の案内で庭口へまわれと言った。その案内に連れて、千枝太郎は草ぶかい庭伝いに奥の方へ進んでゆくと、昼でも薄暗い座敷のなかに、神々《こうごう》しいように美しい若い女が坐っていた。そのそばに一人の侍女が控えていた。
「烏帽子折りを連れてまいりました」と、千枝太郎を案内して来た侍女は言った。
彼女は千枝太郎を庭さきに残して、自分だけは縁にのぼって主人のそばに行儀よく坐った。
「初めてお目通り仕まつりまする」
千枝太郎は、草に手をつきながらそっと見あげると、正面に坐っている若い女――無論それが三浦の孫娘の衣笠であろう――年こそ少し若いが、その顔かたちはかの玉藻に生き写しであった。彼はあっ[#「あっ」に傍点]と言おうとする息をのみ込みながら、少し伸び上がって無遠慮にその顔をじっと覗き込むと、女の顔は不思議なほど玉藻によく似ているので、彼はなんだか薄気味悪くなって来た。化生《けしょう》の物がこの空き屋敷の奥にかくれ住んでいて、自分をたぶらかすのではないかとも疑われた。
白昼《まひる》の秋の日は荒れた草むらを薄白く照らして、赤い蜻蛉《とんぼう》が二つ三つ飛んでいる。それを横眼にみながら彼は黙って俯向いていると、侍女どもは交るがわるに京の名所などを訊いた。
彼を呼び込んだのは主人の娘の料簡ではなく、侍女どもが自分の退屈しのぎに京の男と話して見たさに、娘をそそのかして呼ばせたものらしい。娘は始終つつましやかに黙って聴いていた。それが千枝太郎には物足らなかった。彼は玉藻によく似たその娘の口から何かの詞《ことば》を聴き出したいと念じていたが、口の軽い侍女どもばかりに物をいわせて、娘の結んだ口はなかなかほぐれなかった。それでも彼が渡辺の綱に腕を斬られたという戻橋《もどりばし》の鬼女の話をした時に、娘の美しい眉は少しひそめられた。
「そのような不思議がまことにあったかのう」
それは若い女にあり勝ちの恐怖の弱い声ではなかった。優しいなかにも一種の勇気を含んでいるような、冴え渡った声であった。千枝太郎は驚かされたように再びその顔をじっと見あげると、この衣笠という娘の顔かたちが玉藻によく似ているとはいうものの、その艶色におのずから相違が見いだされた。玉藻は妖麗《ようれい》であった。衣笠は端麗《たんれい》であった。千枝太郎はこの相違を比較して考えた。そうして、今までは玉藻のほかに殆んど女というものに眼をくれたことがなかった彼の若い魂が、眼に見えない糸にひかれて衣笠の方へだんだん吸い寄せられて行った。
「いろいろの話を聴いて面白かった。あすも又来やれ」と、侍女どもは言った。
「あすもまた御機嫌伺いにあがりまする」
一※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、205−1]《いっとき》ほどの後に千枝太郎は暇乞いをして帰った。それから京の町をひとめぐりしたが、きょうも都の人はちっとも彼に商売《あきない》をさせてくれなかった。それでも三浦の屋敷で幾らかの仕事をしたのに満足して、彼は軽い心持で山科へ戻った。
あくる日も早く起きて、千枝太郎は京へ行った。そうして、真っ直ぐに三浦の屋敷をたずねると、彼は小源二から意外の話を聞かされた。衣笠はゆうべ物怪《もののけ》に襲われたというのであった。
「おれはその場に居合わせたのではないが、侍女どもの話はこうじゃ」と、小源二は烏帽子の緒を締め直しながらささやいた。「きのうの夕暮れじゃ。衣笠どのが端《はし》近う出て虫の音に聞き惚れていらるると、庭の秋草の茂みから煙りのように物の影があらわれた。見るみるうちに、それが美しい上臈の姿になって、檜扇《ひおうぎ》におもてをかくしながら涼しげな声でこう言った。お身は京に長くとどまっていたら必ず禍いがある。早う故郷へ戻られいと……。しかし衣笠どのは気丈の生まれじゃで、眼も動かさずにじっとその怪しい物を見ていらるると、上臈はまた言った。わらわの申すことを用いねば命はないぞ、その期《ご》に及んで後悔おしやるなと、言うかと思うと、その檜扇の蔭から怖ろしい……人か幽霊か鬼か獣《けもの》か判らぬような、世に悽愴《ものすご》い変化《へんげ》のおもてが……。侍女どもはさすがにあっ[#「あっ」に傍点]とおびえて思わず顔を掩って俯伏してしまったが、衣笠どのはあくまでも気丈じゃ、懐ろ刀に手をかけて寄らば討とうと睨みつめていらるると、怪しい上臈はあざけるように、ほほと軽く笑いながら、再び草むらへ消えるように隠れて
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