けに一人の供をも連れないで何処《いずこ》へ行くつもりであったろう。千枝太郎にはとてもその想像が付かなかった。さらに不思議なのは、その車が彼の姿をみると俄に向きを変えてしまったことである。もう一つ彼をおびやかしたのは、すだれのうちから響いた女の声であった。
 わらわに恋するなど及ばぬこと――それが強い意味を含んで千枝太郎の胸にこたえた。恋か何か知らないが、彼は初めて衣笠の名を聞いたときから――初めて衣笠の顔を見た時から――彼の心はその方へ怪しく引き寄せられてゆくように思われた。彼の心は知らずしらずに妖麗の玉藻を離れて、端麗の衣笠の方へ移っていった。その秘密、彼自身すらもまだはっきりとは意識していない内心の秘密を車のぬしはとうに見破っているらしい。一種の羞恥心と恐怖心とがひとつになって、千枝太郎はもうその車を追いかける勇気を失った。彼は石のように突っ立って、だんだんに遠ざかっていく車の黒い影をいたずらに見送っていた。
 車のぬしは確かに衣笠であろうか。あるいは自分の見損じで、彼女はやはり玉藻ではあるまいか。衣笠の顔と玉藻の顔と、衣笠の声と玉藻の声と、それが一つにこぐらかって、混乱した千枝太郎の頭にはもうその区別が付かなくなってきた。どう考えても衣笠が今頃ここへ来る筈がない。それがやはり玉藻であるらしく思われてきたので、彼はもう一度その正体を見極めたくなって、大胆に再びそのあとを追おうとすると、彼の踏み出した足はたちまち引き戻された。何者にか、その袖をしっかりと掴まれているのであった。
「千枝太郎、待ちゃれ」
 それが師匠の声であることは、この場合にもすぐに覚えられたので、彼はあわてて捻じ向くと、自分の袖を掴んでいるのは兄弟子の泰忠であった。そのそばには播磨守泰親も立っていた。
「千枝太郎。あっぱれの働きをしてくれた」と、泰親は自分の足もとにひざまずいている弟子をみおろしながら言った。「もう追うには及ばぬ。正体はたしかに見とどけた。お身の訴えを泰忠から聴いて、泰親自身で様子を探りにまいった。よう教えてくれた。かたじけないぞ。これで正体もみな判った」
 師匠はひどく満足したらしい口吻《くちぶり》であるが、弟子にはそれがよく判らなかった。千枝太郎は怖るおそる訊いた。
「して、あの車のぬしは何者でござりましょう」
「お身の眼にはなんと見えた。あれは紛《まぎ》れもない玉藻じゃ」
「玉藻でござりましょうか」
「彼女《かれ》でのうて誰と見た。三浦の娘などと思うたら大きな僻目《ひがめ》じゃ」と、泰親は意味ありげにほほえんだ。
 千枝太郎は再びおびやかされた。師匠も自分の胸の奥を見透かしているらしいので、彼は重い石に圧《お》し付けられたように、頭をたれたまま小さくうずくまっていた。
「もう夜が更《ふ》けた」と、泰親は陰った月の陰を仰いだ。「わしはすぐに屋敷へ帰る。千枝太郎も一緒に来やれ」
 改めてなんの言い渡しはなくとも、これで彼の勘当はゆるされたのである。千枝太郎はよみがえったように喜んで、泰忠と一緒に師匠の供をして京へ帰った。帰るとすぐに、泰親はこの二人のほかに優れた弟子の二人を奥へ呼び入れた。いずれも河原の祈祷に幣《へい》をささげた者どもである。師匠は四人の弟子たちに言い聞かせた。
「千枝太郎の訴えで何もかもよく判った。かの古塚へ夜な夜な詣る怪しの女はまさしく玉藻に極わまった。察するところ、かの古塚のぬしが藻《みくず》という乙女《おとめ》の体内に宿って、世に禍いをなすのであろう。就いては泰親の存ずる旨あれば、夜があけたら宇治の左大臣殿にその旨を申し立て、かの古塚のまわりに調伏の壇を築いて、かさねて降魔の祈祷を試むるであろう。鳥を逐わんとすればまずその巣を灼《や》くというのはこの事じゃ。今度こそは大事の祈祷であるぞ。ゆめゆめ油断すまいぞ」
 有明けのともしびに照らされた師匠の顔は、物凄いほどに神々《こうごう》しいものであった。昼夜を分かたぬ連日の祈祷に痩せ衰えた彼の顔も、今度は輝くばかりに光っていた。四人の弟子も感激して師匠の前を引き退がったが、泰親の居間には明るい灯があかつきまで消えなかった。
 弟子たちは自分の部屋へ戻ってうとうとしたかと思うと、忽ちに師匠の声がきこえた。
「もう夜が明けたぞ。泰忠は早く支度して宇治へまいれ。早う行け」
「心得ました」
 泰忠はすぐに跳ね起きて屋敷を出て行った。いつもならばこの使いは自分に言い付けられるものをと、千枝太郎は羨ましいような心持で門《かど》まで見送って出た。東がすこし白んだばかりで、深い霧の影が大地を埋めているなかを、泰忠が力強く踏みしめて歩んでいくのが、いかにも勇ましく頼もしく思われて、千枝太郎も一種の緊張した気分になった。
 この時代の人が京から宇治まで徒歩《かち》で往き戻りするのであるから、帰りの遅いのは判り切っているので、千枝太郎は彼の戻って来るまで山科へ一度帰りたいと思った。
「ゆうべ出たぎりで、叔父や叔母も定めて案じておりましょう。昼のうちに立ち帰って、この次第を語り聞かせとう存じまするが……」と、彼は師匠の前に出て願った。
「もっとものことじゃ。叔父叔母にもよう断わってまいれ」
 師匠の許しをうけて、千枝太郎は土御門の屋敷を出た。その途中で彼は又、あらぬ迷いが湧いて来た。自分もいったんはそう疑い、師匠は確かにそう言い切ったのであるが、車のぬしは果たしてかの玉藻であろうか。自分の見た女の顔はどうも衣笠に似ているらしく、殊にその身内からはなんの光りも放っていなかった。勿論、この場合には、自分の目よりも師匠の明らかな眼を信じなければならないと思いながらも、彼はまだ消えやらない疑いを解くために、その足を七条の方角へ向けた。
 三浦の屋敷へ行って、家来に逢ってきくと、やはりきのうと同じ返事で、その後なんにも変わったことはないと言った。
「娘御はゆうべ何処《いずこ》へかお忍びではござりませぬか」と、千枝太郎はそれとなく探りを入れてみた。
「なんの、お慎みの折柄じゃ。まして夜陰《やいん》にどこへお越しなさりょうぞ」と、家来は初めから問題にもしないように答えた。
 これを聞いて千枝太郎も安心した。もう疑うまでもない。車のぬしを衣笠と見たのは自分の僻目《ひがめ》で、彼女はやはり玉藻であったに相違ない。それにしては、わらわに恋するなど及ばぬこと――この一句の意味がよく判らなかった。玉藻は自分の方から一度首尾して逢うてくれとたびたび迫り寄って来るのでないか。それがまことの恋であるかないかは別問題として、思い切らねば命を取るとまで言い放すのは余りにおそろしい。千枝太郎はいろいろにその問題をかんがえた。
 三浦の屋敷にあらわれた怪しい上臈は、衣笠にむかって早く故郷へ帰れと言った。ゆうべの怪しい女は、自分にむかって恋を思い切れと言った。それとこれを綴りあわせて考えると、玉藻は自分の心が衣笠の方へひかれていくのを妬んで、いろいろの手だてを以って彼女を嚇《おど》し、あわせて自分を嚇そうとするのであろう。ゆうべも衣笠の姿を自分に見せて、衣笠の口真似をして自分を嚇したのであろう。
 こうだんだんに煎じつめて来ると、玉藻はどう考えても魔性の者である。もう寸分も疑う余地はないのである。千枝太郎はあらん限りの勇気を奮い起こして、師匠と共におそろしい悪魔をほろぼさなければならないと決心した。彼は男らしい眉をあげて、高く晴れた大空を仰ぎながら、けさの泰忠と同じように大地を力強く踏みしめながら歩いた。
 叔父はあきないに出て留守であった。叔母に逢って、勘当の赦《ゆ》りたわけを手短かに話して、千枝太郎はすぐに京へ引っ返して来た。土御門の屋敷へ帰ると、泰忠はもう先きに戻っていた。彼は宇治へゆく途中の頼長に逢って、ひとつ牛車に乗せられて来たのであった。
「いよいよあすはかの古塚にむかって最後の祈祷を行なうことに決めた。左大臣殿は塚を発《あば》けと申さるる。それもよかろう。いずれにしてもあすは大事じゃ。怠るな」と、泰親はかさねておごそかに言い渡した。「千枝太郎、お身は今度の功によって、祈祷の数に加えてやるぞ」
 千枝太郎は涙にむせんで師匠の恩を感謝した。その夜なかに彼は怪しい夢を見た。
 場所はどこだか判らないが、彼は三浦の孫娘と連れ立って広い草原をあるいていた。そこには野菊や桔梗《ききょう》が咲き乱れて、秋の蝶がひらひらと舞っていた。二人は手を把《と》って睦まじくあるいて来ると、草の中には陥穽《おとしあな》でもあったらしい。衣笠のすがたは忽ち消えるように沈んでしまった。と思うと、入れ替わって玉藻の形がありありと現われた。
「三浦の娘に心を移そうとしてもそれは成らぬ。おまえと藻《みくず》とは前《さき》の世からの約束がある。いかにわたしを仇《かたき》にしようと思うても、所詮《しょせん》むすび付いた羈絆《きずな》は離れぬ。今別れても再びめぐりあう時節があろう。これを覚えていてくだされ」
 彼女は草の奥にある大きい怪しい形の石を指さして消えた。千枝太郎の夢もさめた。夜があけると、彼は急に胸苦しくなって、湯も米も喉へは通らないように思われた。しかしきょうは大事の日であるので、彼は努めて早く起きて、ほかの弟子たちと一緒にきょうの祈祷の仕度に取りかかった。謹慎《つつしみ》の身である泰親が、白昼《まひる》の京の町を押し歩くということは憚りがあるので、彼は頼長から差し廻された牛車に乗って、四方のすだれを垂れて忍びやかに屋敷を出た。ほかの弟子たちは笠を深くしてそのあとについて行った。
 頼長の指図をうけて、源氏の侍どもはかの森のまわりを厳重に取り囲んでいた。そのなかには三浦介義明も木蘭地《もくらんじ》の直垂《ひたたれ》に紺糸の下腹巻をして、中黒藤《なかぐろとう》の弓を持って控えていた。三浦の党は上洛以来きょうが初めての勤めであるので、彼も家来どもも勇気が満ちていた。千枝太郎に折らせた新しい烏帽子の緒を固く引きしめて、小源二も大きい長巻《ながまき》を引きそばめていた。
 この物々しい警固のなかを分けて、泰親の群れは昼でも薄暗い森の奥へはいった。邪魔になる立ち木は武士どもに伐り倒されて、そこには祈祷の壇が築かれた。陰った秋の空は低くたれて、森には鳥一羽の鳴く声もきこえなかった。
 壇に登ったのは河原の祈祷とおなじように四人であった。彼らはやはり五色《ごしき》に象《かたど》った浄衣《じょうえ》をつけていた。泰親の姿は白かった。落葉に埋められた円い古塚を前にして、祈祷は午《うま》の刻(正午十二時)から始められたが、それが息もつかずに夜まで続いたので、そこらには篝火《かがりび》が焚かれた。木の間へ忍び込む夜風にその火がゆれなびいて、五色の影を時どきに暗く隠すかと思うと、又明かるく浮き出させるのも物凄かった。警固の人びとも草も木も息をひそめて、このすさまじい祈祷の結果をうかがっているらしかったが、夜の亥《い》の刻(午後十時)を過ぎた頃に、梢をゆする夜風がひとしきり烈しく吹いて通ったかと思うと、今まで黙っていた古塚が地震《ないふる》ようにゆらゆらと揺るぎ出した。
 この時である。壇のまん中に坐っていた泰親は忽ち起《た》ち上がって、ひたいにかざしていた白い幣を高くささげながら、塚を目がけて礑《はた》と投げつけると、大きい塚はひと揺れ烈しくゆれて、柘榴《ざくろ》を截《た》ち割ったように真っ二つに裂けた。


殺生石《せっしょうせき》

    一

 その夜であった。
 関白の屋形には大勢の女房たちがあつまって、玉藻の前を中心に歌の莚《むしろ》が開かれていた。あしたは十三夜という今夜の月は白い真玉《またま》のように輝いて、さすがに広いこの屋形も小さく沈んで見えるばかりに、秋の夜の大空は千里の果てまでも高く澄んで拡がっていた。
 今夜の題は「月不宿《つきやどらず》」というのであった。この難題には当代の歌詠みと知られた堀川や安芸や小大進《こだいしん》の才女たちも、うつむいた白い頸《うなじ》を見せて、当座の思案に打ち傾いていた。一座はしわぶきの声もなくて、鳴き弱
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