星の赤いなかに、その星一つは優れて大きく金色《こんじき》に輝いていた。それは北斗七星というのであろうと小雪は思った。
女はその星をしばらく拝していたが、やがて向きを変えて池の汀にひざまずいた。彼女は左の手で長い袂をおさえながら、夜目にも白い右の手をのばして池の玉藻をすくっているらしかった。好奇心はいよいよ募って、女の童は息もせずに見つめていると、女はやがてその青い藻を手の上にすくいあげて、しずくも払わずに自分の頭の上に押し頂いた。
藻をかつぐのは狐である――こういう言い伝えを彼女は知っていたので、小雪は俄に怖ろしくなった。すくんだ足を引き摺りながらそっと引っ返そうとした時に、女のひかりは吹き消したように消えた。
「小雪か」と、暗いなかで女の涼しい声がきこえた。それは確かに玉藻の声であった。
女の童はもうおびえて、声も出なかった。ただ身を固くしてそこにうずくまっていると、玉藻はするすると寄って来て、彼女の細い腕をつかんだ。
「おまえ見たか」
女の童はやはり黙ってすくんでいた。
「隠さずに言や。なにを見た」
「なんにも……見ませぬ」
彼女はふるえながら答えたが、もう遅かった。女の童の小さいからだは、蛇に呑まれようとする蛙のように手足をひろげたまま固くなってしまった。その正体のない女の童を地の上にまろばして、玉藻はまずその黒い髪の匂いを嗅いだ。豊かな頬の肉をねぶった。
このとき、鬼火のような小さい松明《たいまつ》の光りが植え込みのあいだからひらめいて、だんだんにこちらへ近寄って来た。それは織部清治で、彼は宵と夜なかと夜あけとの三度に、屋形の庭じゅうを見廻るのが役目であった。
彼は暗いなかで、犬が水を飲むような異様なひびきを聞いたので、ぬき足をしてここへ忍んで来た。そうして、その正体を見定めようとして松明をあげると、その火は水を掛けられたように消えてしまった。しかしその一刹那に、そこに這いかがまっている人が玉藻であるらしいことを、彼は早くも認めた。
「玉藻の御《ご》か」と、清治は声をかけると、あたりは急に明るくなった。その光りは花の宴《うたげ》のゆうべに、玉藻の身から輝いたのと同じように見えた。
それより更に清治の眼をおどろかしたのは、その光りに照らし出されたこの場のむごたらしい光景であった。女の童の小雪は死んだきりぎりすのように、手も足もばらばらになってそこに倒れていた。玉藻の口には生《なま》なましい血が染みていた。もうこうなると、相手の玉藻はまさに鬼女である。清治はすぐに太刀に手をかけたが、その手はしびれて働かなかった。
玉藻はその冷艶なおもてに物凄い笑みを洩らした。怪しい光りは再び消えて、暗いなかで男の唸る声がきこえた。
「望みを遂ぐる時節も近づいたと思うたら、丁度幸い男と女の生贄《いけにえ》を手に入れた」
男の唸り声も玉藻の声もそれぎりで聞こえなくなった。
夜があけてから、清治と女の童との浅ましい亡骸《なきがら》が古池の水に浮かんでいるのを見いだされた。しかも二人がどうしてこんな無惨な死にざまをしたのか、誰にも判らなかった。
兼輔の死に次いで、こんな奇怪な事件が再び出来《しゅったい》したので、忠通の神経はいよいよ傷つけられた。殊に今度はそれが自分の屋形の内に起こったので、彼は言い知れない恐怖と不安とに囚われた。彼は三度の食事すらも快く喉へは通らないようになってきた。
それから四日ほど過ぎて、大納言師道が来た。彼の報告はさらに忠通の心を狂わせる種であった。玉藻を采女に申し勧める一条は、果たして左大臣頼長から強硬なる抗議が出た。信西入道も反対であった。彼らの反対は師道も内々予期していたので、[#底本では読点が句点]彼もなんとかしてその敵を押し伏せようと試みたが、何をいうにも正面の敵は頼長である。しかも博学宏才の信西入道がその加勢に付いているので、師道はとても彼らと対抗することは出来なかった。結局さんざんに言いまくられて、彼は面目を失って退出した。
「彼らは何故《なにゆえ》ならぬという。素性が卑しいと申すのか」と、忠通は唇を咬みながら訊いた。
「いや、そればかりではござりませぬ。玉藻という女性《にょしょう》に就いては落意しがたき廉々《かどかど》があるとか申されまして……」と、師道もすこしあいまいに答えた。「あのような女性を召されては天下《てんが》の乱れにもなろうと信西入道が申されました」
「なんの、天下の乱れ……。おのれらこそこの忠通を押し倒して、天下を乱そうと巧《たく》んでいるのじゃ」
忠通は拳《こぶし》を握って、跳り上がらんばかりに無念の身をもだえた。
二
師道が早々に帰ったあとで、忠通はすぐに玉藻を呼んだ。彼は燃えるような息を吐きながら、今聞いた顛末《てんまつ》を物語った。
「もう堪忍も容赦もならぬ。衛府《えふ》の侍どもを召しあつめて、宇治へ差し向けようと思う」
「宇治へ……」と、玉藻は眉をよせた。
「おお、頼長めを誅伐するのじゃ。氏《うじ》の長者を許され、関白の職におる忠通に敵対するやからは謀叛人も同様じゃ。弟とて容赦はない。すぐに人数を向けて攻め亡ぼすまでのことじゃ。信西入道も憎いやつ、今までは我が師と敬うていれば付け上がって、謀叛人の方人《かたうど》となって我に刃向かうからは、彼めも最早《もはや》ゆるされぬ。頼長と時を同じゅうして誅伐する。かれら二人をほろぼせば、その余の徒党は頭のない蛇も同様で、よも何事をも仕得《しえ》まいぞ。侍を呼べ、すぐに呼べ」と、忠通はまなじりを裂いて哮《たけ》った。
「御立腹重々お察し申しまするが、まずお鎮まりくださりませ」
玉藻はさえぎってとめた。今この場合に衛府の侍どもを召されても、かれらが素直に左大臣誅伐の命令に応じて動くかどうかわからない。左大臣の野心はとうに見え透いているものの、これぞと取り立てていうほどの証拠もないのであるから、迂闊にここで事を起こすと、理を以って非に陥るおそれがないでもない。衛府の者どものうちに左大臣や信西入道に心をかよわす者があって、早くもそれを敵に注進されたら、あの精悍な頼長と老獪《ろうかい》な信西とが合体《がったい》して何事を仕向けるかもしれない。あるいは機先を制して、むこうから逆寄《さかよ》せに押しかけて来るかもしれない。下世話《げせわ》のことわざにもある通り、急《せ》いては事を仕損ずる。しょせんは彼らを誅伐するにしても、今しばらく堪忍しておもむろに時機を待つ方が安全であろうと、彼女は賢《さか》しげに忠告した。
それも一応理屈はあった。殊にそれが玉藻の意見であるので、忠通も渋《しぶ》しぶながら納得したので、彼女はほっとしたような顔をしてそこを起《た》った。
その日の午過ぎに玉藻は被衣《かつぎ》を深くして屋形を忍んで出た。清治と女の童の死んだ晩から、さみだれ空はぬぐったように晴れつづいて、俄に夏らしい強い日に照らされた京の町には、もう軽い砂が舞い立っていた。柳のかげには牛をつないで休んでいる人が見えた。玉藻は姉小路の信西入道の屋形をたずねた。
門をはいると、大きい槐《えんじゅ》の梢に蝉が鳴いていた。車溜りのそばには一人の若い男がたたずんで、その蝉の声を聴いているらしく見えた。男は千枝太郎であった。
「千枝太郎どの」
玉藻に呼ばれて、千枝太郎は振り向いた。
「おお、玉藻……」と、彼はすこしく眉を動かしたが、さりげなく会釈した。「晴れたら俄に暑うなった。お身には河原で逢うたぎりじゃが、変わることもないか」
「お前にも変わることはありませぬか」と、玉藻はなつかしそうに言った。「その後にはよい折りがのうて、逢うこともならなかった。して、今はなにしにここへ……。お師匠さまのお供してか」
千枝太郎はうなずいた。彼は明るい夏の日の前で玉藻とむかい合って、きょうこそはその正体をよく見届けようと思ったのである。地に黒く映っている玉藻の影は、やはり普通の女の姿であった。千枝太郎は更に女の顔をじっと視つめると、玉藻は少し羞《は》じらうように顔をかしげて、斜めに男の眼のうちをうかがった。
「お師匠さまはなんの御用じゃ」
「わしは知らぬ」と、千枝太郎は情《すげ》なく言った。
梢の蝉は鳴きつづけていた。二人はしばらく黙っていた。
「お前には一度逢うて、しみじみ話したいこともあるが、よい折りはないものか」と、玉藻はひと足すり寄って訊いた。
懐かしげな、恋しげな、情けの深そうな女の眼をじっと見ているうちに、千枝太郎の胸はなんとなくほてってきた。彼女は果たして魔性《ましょう》の者であろうか。年の若い千枝太郎は師匠の教えを少し疑うようにもなってきた。それでも彼は迂闊に油断しなかった。
「お師匠さまは厳しいで、御用のほかには滅多に外へは出られぬ。それはわしばかりでない。ほかの弟子たちも皆それじゃで是非がない」
「ほんにそうであろうのう」と、玉藻は低い溜息を洩らした。「それでも忍んで出られぬことはあるまいに、たった一度じゃ、逢うて下されぬか。むかしの藻《みくず》じゃ、憎うはあるまい。それともお前、ほかに親しい女子《おなご》でも出来たのか。もう昔の藻を何とも思わぬのか。このあいだも言うた通り、人の身の行く末は知れぬものじゃ。山科の里に一緒に育って、おまえは烏帽子折りの職人になる。わたしも烏帽子を折り習うて……。思えばそれもたがいに幼い同士の夢であった」
千枝太郎の眼の前には、その幼い夢の絵巻物が美しく拡げられた。山科の里の森や川や、それを背景にして仲よく遊んでいた二人の姿も、まぼろしのように浮かび出した。彼はうっとりとして玉藻の顔を今更のように見つめた。そうして、何事をか言おうとするとき、奥から一人の侍が出て来た。
侍は胡乱《うろん》らしく玉藻をじろじろ眺めているので、玉藻は丁寧に会釈して、主人の入道に取次ぎを頼むと、侍は更に彼女の顔を睨むように見て、すぐに内へ引っ返して行った。
「あれは右衛門尉成景《うえもんのじょうなりかげ》というお人じゃ」と、千枝太郎は彼のうしろ姿を見送って教えた。
「見るから逞《たくま》しそうな。さすがは少納言殿のお内に侍《さむら》う人ほどある」と、玉藻はうなずいて、さてまた語り出した。
「のう、千枝太郎どの。くどくも言うようじゃが、お前どうでもわたしに逢うのはいやか。今宵にはかぎらぬ、あすでもあさってでも……。関白殿のお屋形へまいって、玉藻に逢おうと言うてくれたら、わたしはきっと首尾して出る。これ、どうでもいやか。どうでも応《おう》とは言われぬか」
彼女はくれないの唇を男の耳にすりつけて囁《ささや》いた。
女のうす絹に焚きこめた甘いような香の匂いは千枝太郎のからだを夢のように押し包んで、若い陰陽師の血は俄に沸き上がった。強い夏の日を仰ぐ彼の眼はくらくらと眩《くら》んできて、彼は真っ直ぐに立っているに堪えられないように、思わず女の腕にもたれかかると、玉藻はほほえみながら彼を軽くかかえてやった。そうして又、甘えるようにささやいた。
「さりとは情のこわい人じゃ。むかしの藻を忘れてか」
邪魔なところへ右衛門尉成景が再び出て来た。彼は玉藻に向かっておごそかに言った。
「主人の少納言、あいにくの客来《きゃくらい》でござれば、御対面はかなわぬとの儀にござる。失礼は御免、早々にお帰りあれ」
「それは残り多いこと」と、玉藻は相手の無礼を咎《とが》めもせずにあでやかに笑った。「お客は播磨守殿とやら。大切の御用談でござろうか」
「主人と閑室にての差し向かい、いかようの用談やら我々すこしも存じ申さぬ」と、成景はにべ[#「にべ」に傍点]なく言った。
それでも玉藻は素直に立ち去らなかった。自分は是非とも入道殿にひと目逢って密々に申し入れたい大切の用事があるから、お客の邪魔にならないように別間でしばらくお逢いを願いたいと押し返して言った。成景はなんとかして主人に逢わせまいと考えているらしく、いろいろに詞《ことば》をかまえて追い払おうとしたが、玉藻はなかなか動きそうもないので、彼もとうとう根《こん》負けがして又もや奥へ引
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