、もう一度彼女の正体を確かに見とどけたいと思った。
「きょうの法会はなんどきに果つるかのう」と、彼は独りごとのように言った。
「申《さる》の刻じゃと聞いている」と、翁は言った。「諸人が退散するまでにはまだ一刻余りもあろうよ」
 言ううちに、前の方に詰め寄せていた人々は、物に追われたように俄に崩れて動き出した。その人なだれに押されて、突きやられて、翁と千枝太郎は別れ別れになってしまった。法会は中途で急に終わって、参列の諸人が一度に退散するために、先払いの雑色《ぞうしき》どもが門前の群集《ぐんじゅ》を追い立てるのであった。
 法会はなぜ中途で終わったのか。千枝太郎は逢う人ごとに訊いてみたが、誰にも確かなことは判らなかった。しかし衆僧をあつめて読経の最中に、大導師の阿闍梨がなにを見たのか、急に顔の色を変えて額《ひたい》に玉の汗をながして、数珠の緒を切って投げ出して、壇からころげ落ちたというのが事実であるらしかった。
「魔性のわざじゃ」
 千枝太郎も顔の色をかえて早々に逃げ帰った。阿闍梨はなにを見て俄に取り乱したのか、おそらく参列の人びとのうちにかの玉藻の妖艶な姿を見いだして、その道心が怪しく乱れ始めたのであろう。生きながら魔道へ引き摺られてゆく阿闍梨の浅ましい宿業《しゅくごう》を悼むと共に、千枝太郎は自分のお師匠さまの眼力の高く尊いのをいよいよ感嘆した。
 しかしこれを察したのは千枝太郎の師弟ばかりで、余人の眼にはこの秘密が映らなかった。高徳のひじりが物狂《ものぐる》おしゅうなったのは、天狗の魔障《ましょう》ではあるまいかなどと、ひたすらに恐れられた。そうして、それが日の本の仏法の衰えを示すかのように、口さがない京わらんべは言いはやすので、忠通はいよいよ安からぬことに思った。なまじいのことを企てて、かえって自分の威厳を傷つけたように口惜しく思われた。彼は眼にみえない敵に取り囲まれて、四方からだんだんに圧迫されるような苦しみをおぼえて、その神経はいよいよ尖って来た。この頃の彼は好きな和歌を忘れたように捨ててしまった。政務もとかくに怠り勝ちで、はては所労と称して引き籠った。
 ことしの夏は都の空にほととぎすの声は聞こえなかったが、五月雨《さみだれ》はいつもの夏よりも多かった。五月に入ってからは殆んど小やみなしに毎日じめじめと降りつづいて、若葉の緑も腐って流れるかと思うばかりに濡れ朽ちてしまった。垂れこめている忠通の頭はくろがねの冠《かんむり》をいただいたように重かった。そうして、むやみに癇がたかぶって、訳もなしにいらいらした。夜もおちおちとは眠られなかった。このままに日を重ねたらば、自分も法性寺の阿闍梨の二の舞いになるのではあるまいかと、自分ながら危ぶまれるようになった。
 家来も侍女共も主人の機嫌が悪いので、みなはらはらしていた。お気に入りの織部清治も毎日叱られつづけていた。ことに彼はさきの日、法性寺へ使いに立ったときに、阿闍梨の容態を確《しか》と見とどけて来なかったがために、大切の法要をさんざんの結果に終わらせたというので、いよいよ主人の機嫌を損じた。そのなかで寵愛のちっとも衰えないのはかの玉藻ひとりで、主人の機嫌がむずかしくなればなるほど、彼女は主人のそばに欠くべからざる人間となって、忠通が朝夕の介抱や給仕はすべて彼女ひとりが承っていた。
「よう降ることじゃ」
 忠通は暮れかかる庭の雨を眺めながら、滅入《めい》るような溜息をついた。
「ほんによう降り続くことでござりまする。河原ももう一面に浸されたとか聞きました」と、玉藻もうっとうしそうに美しい眉を皺めて言った。
「また出水《でみず》か。うるさいことじゃ。出水のあとは大かた疫病《えやみ》であろう。出水、疫病、それにつづいて盗賊、世がまた昔に戻ったか。太平の春は短いものじゃ」
 天下の宰相としてこの苦労は無理ではなかった。二人はまた黙っていると、庭の若葉はだんだんに暗い影につつまれて、溢れるばかりに漲《みなぎ》った池のほとりで蛙がそうぞうしく鳴き出した。
「ああ、世の中がうるそうなった。わしもお暇《いとま》を願うて、いっそ出家|遁世《とんせい》しようか」と、忠通はまた溜息をついた。
「御出家……」と、玉藻は聞き咎めるように言った。「殿が御出家なされたら、あとは誰が代《かわ》らせられまする」
「頼長かな」
「そうなりましたら、左大臣殿は思う壺でござりましょう。現に殿がお引き籠りの後は、かのお人がなにもかも一人で取り仕切って、殿上を我が物顔に押し廻していらるるとやら。今ですらその通り、殿が御隠居遊ばされたら、その後の御威勢は思いやられまする」
「彼のことじゃ。さもあろうよ」と、忠通は苦笑いした。
 その笑いの底には、おさえ難い不満が忍んでいた。日頃からややもすれば兄を凌ごうとする頼長めが、おれの引き籠っているのを幸いに、冠をのけぞらして殿上を我が物顔にのさばり歩く。その驕慢の態度が眼にみえるように思われて、忠通は急にいまいましくなってきた。うかつに遁世して、多年の権力を彼にやみやみ奪われるのは如何にも残念で堪まらないように思われてきた。
「さりとて、わしはこの通りの所労じゃ。頼長が兄に代って何かの切り盛《も》りをするも是非があるまい。余の公家《くげ》ばらは彼の鼻息を窺うばかりで、一人も彼に張り合うほどのものは殿上にあるまいよ」と、忠通は憤るように言った。勢いに付くが世の習いであることを、彼はしみじみと感じた。
 その果敢《はか》ないような顔をじっと見あげて、玉藻はそっと言い出した。
「就きましては、わたくしお願いがござりまするが……」
「あらためてなんの願いじゃ」
「殿の御推挙で采女《うねめ》に召さるるように……」
「ほう、お宮仕えが致したいと申すか」
 忠通はすこし考えた。玉藻ほどの才と美とを具《そな》えていれば、采女の御奉公を望むも無理はない。その昔の小野小町《おののこまち》とてもおそらく彼女には及ぶまい。実は忠通にもかねてその下心《したごころ》があったのであるが、自分の傍《そば》を手放すのが惜しさに、自然|延引《えんいん》して今日《こんにち》まで打ち過ぎていたのである。この際、本人の望むがままに、玉藻を殿上の采女に召させて、彼女の力をかりて頼長めの鼻をくじかせてやろうかとも考えた。忠通も女のひそめる力というものを能《よ》く識《し》っていた。
「望みとあれば、推挙すまいものでもないが……。頼長めが何かと邪魔しようも知れぬぞ」と、忠通はさびしく笑った。
「いえ、その左大臣殿と見事に張り合うて見せます」
「頼長と張り合うか」
「わたくしが殿上に召されましたら、左大臣殿とて……」と、言いさして彼女は、ほほと軽く笑った。
 これはあながちに自讃でない。玉藻ほどの才女ならば、ひそめるその力を利用して、頼長めを殿上から蹴《け》落とすことが出来るかもしれないと、忠通は頼もしく思った。


雨乞《あまご》い

    一

 あくる朝、大納言|師道《もろみち》は関白の屋形に召された。師道は雨を冒《おか》して来た。
「きのうも今日も降りつづいて、さりとは侘《わび》しいことでござる。殿には御機嫌いかがおわします」と、師道はねんごろに関白の容態をたずねた。
「とかくに勝《すぐ》れないでのう」と、忠通は烏帽子のひたいを重そうに押さえた。「きょうわざわざ召したはほかでもない。お身と忠通とは年ごろの馴染みじゃ。打ちあけて少しく申し談じたい儀があって……。近う寄られい」
 それは玉藻を采女に推薦《すいせん》する内儀であった。師道にももちろん異存はなかった。
「至極《しごく》の儀、わたくしも然るびょう存じ申す。当時関白殿下の御威勢を以って、彼女《かれ》を采女にすすめ奉るに、誰も故障申し立つべきようもござりますまい」
「いや、そこじゃて」と、忠通は悩ましげに頭《かしら》をかたむけた。「お身の言わるる通り、忠通の威勢を以って彼女《かれ》を申し勧むるに、なんの故障はない筈じゃが、高き木は風に傷めらるるとやらで、この頃の忠通には眼にみえぬ敵が多い。いや、ひがみでない、忠通はたしかにそう見ておる。就いては玉藻の儀も何かとさえぎって邪魔するやからがないとも限らぬ。まず第一には弟の頼長めじゃ。次には信西入道、彼もこのごろは弟めの襟もとに付いて、ややもすれば予に楯を突こうとする、けしからぬ古入道じゃ。まだそのほかにも数え立てたら幾人もあろう。うわべはさりげのう見せかけて、心の底には忠通を押し傾けようと企んでいるやからが、殿上には充ち満ちておる。お身はまだ知らぬか」
 忠通と頼長、この兄弟の不和は師道も薄うす知らないでもなかったが、忠通の敵が殿上に充ち満ちているなどとはちっとも思い寄らないことで、それは恐らく彼のひがみであろうと思った。自体関白の様子は昔とよほど変わっている。質素な人物がだんだんに驕奢に長じてきた。温厚な人物がだんだん疳癖《かんぺき》の強いわがままな性質に変わってきた。殊にこの頃は病いに垂れ籠めているので、疳癖はいよいよ昂《たか》ぶって、あらぬことにも心を狂わすのであろう。それに逆らっては好くないと考えたので、師道は素直に彼の言うことを聴いていた。
「それじゃに因《よ》って、玉藻の儀もこの忠通の口から申しいづると、きっと邪魔するやからがある。就いては大納言、お身から好《よ》いように申し立ててはたもるまいか。お身は初めて玉藻を見いだした御仁じゃ。そのお身から申し勧むるに於いては、誰も表立ってさえぎる者もあるまい。どうじゃ。頼まれておくりゃれぬか」と、忠通は重ねて言った。
 時の関白藤原忠通卿が詞《ことば》をさげて頼むのである。師道はこれに対して故障をいうべきようもなかった。まして、自分は年来その恩顧《おんこ》を受けている。玉藻を彼に推薦したのも自分である。これらの関係上、師道はどうしてもこの頼みを断わるわけにはいかない破目になっているので、彼はやはり素直に承知した。
「御懇《ぎょこん》の御意《ぎょい》、委細心得申した。あすにも参内《さんだい》して、万事よろしゅう執奏《しっそう》の儀を……」
「おお、取り計ろうてたもるか」と、忠通は子供のように身体をゆすって喜んだ。
 いろいろの打ち合わせをして、師道はやがて関白の前をさがると、入れ代って玉藻が召し出された。忠通は笑《え》ましげに彼女に言い聞かせた。
「万事は大納言が受け合うてくれた。心安う思え」
「ありがとうござりまする」と、玉藻も晴れやかな眼をして会釈した。
 雨はその日の夕方からひとしきり降りやんで、鼠色の雲が一枚ずつ剥《は》げてゆくように明るくなった。その明るい大空の上には赤い星が三つ四つ光っていた。この時代の習いで、亥《い》の刻頃(午後十時)には広い屋形の内もみな寝静まって、庭の植え込みでは時どきに若葉のしずくのこぼれ落ちる音がきこえた。今夜は蛙も鳴かなかった。
 女《め》の童《わらわ》の小雪というのが眼をさまして厠《かわや》へ立った。彼女は紙燭《しそく》をともして長い廊下を伝ってゆくと、紙燭の火は風もないのにふっと消えた。それと同時に暗い行く手に明るい光りが浮き出して、七、八|間《けん》ほど先きを静かに動いてゆくのを見たので、年の若い小雪はぎょっとして立ちすくんだ。光りのぬしは女であった。女は長い袴の裳《すそ》をひいて、廊下を静かに歩んでゆく。そのうしろ姿が玉藻によく似ていると思ううちに、廊下の隅にある一枚の雨戸が音もなしにするりと明いて、女の姿は消えるように庭へぬけ出した。小雪は一種の好奇心にうながされて、これも足音をぬすんでそのあとからそっと庭に降り立つと、玉藻に似た姿は植え込みの間をくぐって行って、奥庭の大きい池の汀《みぎわ》にすっくと立った。
 池は年を経て、その水は蒼黒く淀んでいるのが、この頃の雨に嵩《かさ》を増して、濁った暗い色が汀までひたひたと押し寄せていた。あやめや、かきつばたはその濁った波に沈んで、わずかに藻《も》の花だけが薄白く浮かんでいるのが、星明かりにぼんやりと見えた。女はまず北に向かって一つの大きい星を拝した。ほかの
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