はお身も大かた存じておろう。彼は才智に慢ずる癖がある。この上に学問させたら、彼はいよいよ才学に誇って、果ては天魔《てんま》に魅《みい》られて何事を仕いだそうも知れまい。学問はやめいと言うてくれ。しかと頼んだぞ」
実をいえば、信西も頼長に対してそういう懸念がないでもなかった。才学非凡で、しかも精悍《せいかん》の気に満ちている頼長の前途を、彼もすこしく不安に感じているのであった。この意味に於いては、彼も忠通の意見に一致していた。しかし今夜の忠通の口吻《くちぶり》は、弟の行く末を思う親身の温かい人情から溢れ出たらしく聞こえなかった。
兄弟の不和――それから出発して来た兄の憤恚《いかり》であるらしいことを、古入道の信西は早くも看《み》て取った。
「仰せ一いち御道理《ごもっとも》にうけたまわり申した。それがしよりもよくよく御意見申そうなれど、あれほど御執心の学問をやめいとは……」
「申されぬか」
相手は眼を薄くとじたままで、やはり否とも応ともはっきりとした返事をあたえないので、忠通はいよいよ焦《じ》れ出して、彼が天魔に魅《みい》られているという現在の証拠を相手の前に叩き付けようとした。
「入道はまだ知るまい。頼長はこの兄を押し傾けようと内々に巧《たく》んでいるのじゃ」
「よもや左様な儀は……」と、信西はすぐに打ち消した。
「いや、証人がある。彼が口から確かに言うたのじゃ」
余人に洩らすなと口止めをしたのを忘れたように、忠通自身がその秘密をあばいた。
「その証人は……」
相手のおちついているのが、忠通には小面《こづら》が憎いように見えた。
「証人は玉藻じゃ。彼はきのう玉藻に猥りがましゅう戯れて、あまつさえそのようなことを憚りもなしに口走ったのじゃ」
「ほう、玉藻が……」
信西のひとみは忠通と同じように鋭く晃《ひか》った。
二
それから二日経って、玉藻のもとへ左少弁兼輔の使いが来た。彼はこのあいだの約束を果たすために、あすは法性寺へ誘いあわせて詣ろうというのであった。玉藻は承知の返し文《ぶみ》をかいた。そのあくる日、彼女は主人の許しを受けて、兼輔と一緒に法性寺へ参詣した。
その日は薄く陰っていて、眠たいような空の下に大きい寺の甍《いらか》が高く聳えていた。門をくぐると、長い石だたみのところどころに白い花がこぼれて、二、三羽の鳩がその花びらをついばむようにあさっていた。
叔父と甥との打ち解けた間柄であるので、兼輔はすぐに奥の書院へ通されて、隆秀阿闍梨とむかい合って坐った。阿闍梨はもう六十に近い老僧で、関白家建立のお寺のあるじには不似合いの質素な姿であったが、高徳の聖《ひじり》と一代に尊崇されるだけの威厳がどこやらに備わって、打ち解けた仲でも兼輔の頭はおのずと下がった。
「左少弁どの、久しゅう逢わなんだが、変わることものうてまずは重畳《ちょうじょう》じゃ。きょうは一人かな」
「いや」と、言いかけて兼輔は少し口ごもった。
「連れがあるか」と、阿闍梨は俄に気がついたように甥の顔をきっと見た。「お身のつれは女子《おなご》でないか」
星をさされて、兼輔はいよいよ怯《ひる》んだが、叔父にいやな顔をされるのはもとより覚悟の上であるので、彼はかくさず答えた。
「余人でもござりませぬ。関白殿|御内《みうち》に御奉公する、玉藻という女子でござりまする」
関白殿をかさに被《き》て、彼はかたくなな叔父をおさえつけようとしたが、それは手もなく刎ね返されてしまった。
「たとい御内の御仁《ごじん》であろうとも、わしは女子に逢わぬことに決めている。対面はならぬと伝えてくりゃれ。それは関白殿にもよう御存じの筈じゃ」
ふだんはともあれ、きょうの兼輔はそれでおめおめと引き退がるわけにはいかなかった。かれは玉藻に教えられた提婆品《だいばぼん》を説いた。八歳の龍女|当下《とうげ》に成仏の例《ためし》をひいて、たとい罪業のふかい女人《にょにん》にもあれ、その厚い信仰にめでて、一度は対面して親しく教化をあたえて貰いたいと、しきりに繰り返して頼んだ。しかし叔父は石のように固かった。
「いかに口賢《くちさかし》う言うても、ならぬと思え。面会無用じゃとその女子に言え」
「叔父さまはその女子を御存じない故に、世間の女子と一つに見て蛇《じゃ》のようにも忌み嫌わるるが、かの玉藻と申すは……」
「いや、聞かいでも大方は知っている。世にも稀なる才女じゃそうな。才女でも賢女でも我らの眼から見たら所詮《しょせん》は唯の女子とかわりはない。逢うても益ない。逢わぬが優《ま》しじゃ」
なんと言っても強情に取り合わないので、兼輔も持て余した。今更となって自分の安受け合いを後悔した彼は、玉藻にあわせる顔がないと思った。といって、この頑固《かたくな》な叔父を説き伏せるのは、なかなか容易なことではないので、彼も途方にくれて窃《ひそ》かに溜息をついていると、遠い入口に待たせてあるはずの玉藻がいつの間にここまで入り込んで来たのか、板縁伝いにするりと長い裳《もすそ》をひいて出た。
兼輔はすこし驚いた。阿闍梨は眼を据えて、今ここへ立ち現われた艶女《たおやめ》の姿をじっと見つめていると、玉藻はうやうやしくそこに平伏した。
「はじめてお目見得つかまつりまする」
老僧は会釈もしなかった。彼はしずかに数珠を爪繰っていた。
「委細は左少弁殿からお願い申し上げた通りで、あまりに罪業《ざいごう》の深い女子の身、未来がおそろしゅうてなりませぬ。自他平等のみ仏の教えにいつわりなくば、何とぞお救いくださりませ」と、玉藻は哀れみを乞うように訴えた。
彼女は物詣でのためにきょうは殊更に清らかに粧《つく》っていた。紅や白粉《おしろい》もわざと淡《うす》くしていた。しかもそれが却って彼女の艶色を増して、玉のような面《おもて》はいよいよその光りを添えて見られた。堪えられぬ人間の悲しみを優しいまなじりにあつめたように、彼女はその眼をうるませて阿闍梨の顔色を忍びやかに窺ったときに、老僧の魂《たま》の緒《お》も思わずゆらいだ。彼は生ける天女のようなこの女人を、無下《むげ》に叱って追い返すに忍びなくなった。
「お身、それほどにも教化を受けたいと望まるるのか」と、阿闍梨は声をやわらげて言った。
玉藻は無言で手をあわせた。彼女の白い手首にも水晶の数珠が光っていた。
「して、これまでに経文《きょうもん》など読誦《どくじゅ》せられたこともござるかな」と、阿闍梨はまた訊いた。
もとより何のわきまえのない身ではあるが、これまで経文の片端ぐらいは覗いたこともあると、玉藻は臆せずに答えた。阿闍梨は試みに二つ三つの問いを出してみると、彼女は一いち淀みなしに答えた。さらに奥深く問い進んでゆくと、彼女の答えはいよいよ鮮かになった。いかに執心といっても所詮《しょせん》は女子である。殊に見るところが年も若い。自分たちが五十六十になるまでの苦しい修業を積んで、ようようにこのごろ会得《えとく》した教理をいつの間にどうして易《やす》やすと覚ったのか。阿闍梨は彼女を菩薩の再来ではないかとまでに驚き怪しんだ。世にはこうした女子もある。今までいちずに女人を卑しみ、憎み、嫌っていたのは、自分の狭い眼《まなこ》であったことを、阿闍梨はきょうという今日つくづく覚って、おもわず長い溜息をついた。
「さるにてもお身、何人《なんぴと》に就いてこれほどの修業を積まれしぞ」
玉藻は幼いころから父に教えられて経文を読み習った。それから清水寺の或る僧に就いて少しばかりは学んだ。そのほかには、別にこうという修業を積んだこともなくてお恥ずかしいと言った。
「わたくしのような修業のあさい者にも、ひじりの教えをうけたまわることがなりましょうか」
「なる、なる」と、阿闍梨は幾たびかうなずいた。「たとい女人ともあれ、お身ほどの御仁なら我ら求めても法を説き聞かせたい。御奉公の暇々《ひまひま》にはたずねて参られい」
思いのほかに叔父の機嫌が直ったので、そばに聴いている兼輔もほっとした。彼はこれほどの才女を叔父に紹介したということに就いて一種の誇りを覚えた。それと同時に、日ごろ頑固《かたくな》な叔父の鼻を捻《ね》じ折ったような一種の愉快をも感じた。彼は口の上の薄い髭を撫でながらほくそえんだ。
「叔父上、今からはこのみ寺にも女人禁制の掟《おきて》が解かれましょうな」
「それは人による」と、阿闍梨もほほえんだ。「これほどの女人がほかにあろうか」
言いかけて、彼は玉藻と眼をみあわせると、血の枯れた老僧の指先はおのずとふるえて、数珠はさらさらと音するばかりに揺れた。玉藻の顔色にばかり眼をつけていた兼輔はそれに気がつかないらしかった。
「では、かさねて参ります。かならずお逢いくだりませ」
又の日を約束して、玉藻は阿闍梨の前を退がった。兼輔も一緒に立った。阿闍梨は縁まで出ていつまでも見送っていたが、枯木のような彼は急に若やいだ心持になって、総身の血汐が沸くように感じられた。彼は燃えるような眼をあげて夢ごころに陰った空を仰いでいると、なま暖かい春風が法衣《ころも》をそよそよと吹いた。何とは知らず、彼は幾たびか溜息をついて、酔ったような足どりで本堂の方へゆくと、昼でも薄暗い須弥壇《しゅみだん》の奥には蝋燭の火が微かにゆらめいて、香の煙りがそこともなしに立ち迷っていた。その神秘的の空気のうちに、阿闍梨はだまって坐った。
彼はいつものように観音経を誦《ず》し出そうとしたが、不思議に喉《のど》が押し詰まったようで、唱え馴れた経文がどうしても口に出なかった。胸は怪しくとどろいてきた。ふと見上げると、正面の阿弥陀如来の尊いお顔がいつの間にか玉藻のあでやかなる笑顔と変わっていた。阿闍梨は物に憑《つ》かれたようにわなわなと顫《ふる》え出した。彼はもう堪まらなくなって、物狂おしいほどの大きい声で弟子の僧たちを呼びあつめた。
「すこし子細がある。お身たち一度に声をそろえて高らかに観音経を唱えてくりゃれ」
大勢の僧は行儀よく居並んだ。読経《どきょう》の高い声は一斉に起こった。数珠の音もさらさらと響いた。それに誘い出されて、阿闍梨も共に声を張り上げようとしたが、彼の舌はやはりもつれて自由に動かなかった。彼の胸は不思議に高い浪を打った。
「蝋燭を増せ。香を焚け」
彼は苦しい声を振り絞ってまた叫んだ。蝋燭の数は増されて、須弥壇《しゅみだん》はかがやくばかりに明るくなった。阿弥陀如来の尊像はくすぶるばかりの香りの煙りにつつまれた。その渦まく煙りのなかに浮き出している円満|具足《ぐそく》のおん顔容《かんばせ》は、やはり玉藻の笑顔であった。阿闍梨は数珠を投げすてて跳り上がりたいほどに苛《いら》いらしてきた。彼のひたいからは膏汗《あぶらあせ》がたらたら流れた。
「銅鑼《どら》を打て。鐃鉢《にょうばち》を鳴らせ」
いろいろの手段によって漲《みなぎ》り起こる妄想を打ち消そうとあせったが、それもこれも無駄であった。あせればあせるほど、彼の道心《どうしん》をとろかすような強い強い業火《ごうか》は胸いっぱいに燃え拡がって、玉藻のすがたは阿闍梨の眼先きを離れなかった。日ごろ嘲り笑っていた志賀寺《しがでら》の上人《しょうにん》の執着も、今や我が身の上となったかと思うと、阿闍梨はあまりの浅ましさと情けなさに涙がこぼれた。庭の上にも阿闍梨の涙とおなじような雨がほろほろと降ってきた。
彼は法衣《ころも》の袖に涙を払って、もう一度恐る恐るみあげると、如来のお顔はやはり美しい玉藻であった。一代の名僧の尊い魂はこうして無残にとろけていった。
三
「きょうはきついお世話でござりました」
法性寺の門を出ると、玉藻は兼輔に言った。兼輔もきょうの首尾を嬉しく思った。
「頑固《かたくな》な叔父御もお身に逢うてはかなわぬ。まして初めから魂のやわらかい我らじゃ。察しておくりゃれ」
彼は玉藻に肩をすり寄せて、女の髪の匂いを嗅《か》ぐように顔を差しのぞいてささやくと、玉藻は顔をすこし赤らめてほほえんだ。
「又そのようなことを言うてはお
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